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Sun.

批評という行為

僕は小説やら音楽やらの批評じみたことをよくやっているけど、その実、批評なんてことには実は毛頭興味はない。
僕が絶えずやっているのは厳密にいえば批評じゃなく、僕にとってその作品が有用か無用か、という取捨選択の話でしかない。
その作品の持つ客観的意味、なんてものには僕にとって何の意味もない。
あたりまえといえばあたりまえだけど、でもそういうことなのだ。
ノーベル文学賞まで取ったとかいう南米の作家ガルシア・マルケスの「百年の孤独」をイーブックオフで買うか買うまいかと迷いながら、ネット上の批評文をいくつか読むともなく読むうちに、そんなことを思った。

みんな、バカなことばかりいう。
何を書きたがっているんだ?批評ごときで何をやった気でいるんだ?
ノーベル文学賞を取ったのはお前じゃない。
ましてやノーベル文学賞を取ったところで、アメリカ人のソール・ベローの「この日をつかめ」なんて噴飯モノの駄作だし、大江健三郎のピークは僕にいわせれば受賞に先立つこと数十年前の「遅れてきた青年」だ。
ガルシア・マルケスが正真正銘の天才作家か、ぐうぜん脚光を浴びた南米の馬の骨か、僕は知らない。
コバンザメ狙いのゴシップ記事ならゴシップ記事らしく、もっとチンドン屋みたいに自分を捨てて盛り上げれば?
僕が知りたいのは、そんな月並みな作家論じゃない。

他人の智におもねることで自分の智を気取るなよ。錯覚してるんじゃないよ。
本当に賢いのは、おまえさんたちじゃない。
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14:11 | 人生観 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Tue.

価値観本質論

昨日6時過ぎまで、おやつのチョコレートアイスなど食べながら母と話し込む。
僕がここ数日密かに標榜している独自の理論──人それぞれ違う価値観の「本質」の在り処について──からいろいろと発展して。
久しぶりに前向きな話がいろいろできたのがすごくよかった。
それで会話としては最終的に、
「押尾コータローはバカテク・ギタリストだが、テクニックさえあればいいという決め付けは持っておらず、『しょせんは軽業師に過ぎないかもしれない自分自身』を漠然とかもしれないけれども自覚している、言動に嫌味のない魅力的なギター小僧である」
というところに落ち着きました。

本論と結論とが微妙にズレているのは見ての通りだけど、まったく関係ないわけでもなかった。
僕自身の価値観の本質は「人間」であって、経済学でも法律学でも数学でも科学でもなく、また音楽でもない。
というような話の中から出てきたのが偶然、押尾コータローの名前だったから。
僕は音楽らしきものをやっているけれども、その実、どうやら音楽そのものが好きなわけではない。という事実と対比させる中で、いわば「音楽がどこまで好きかは怪しいものだが、誰よりもギターという楽器に熱中している男」としての押尾コータロー、だった。
そして僕はといえば、価値観の中心にあるのは「人間」ないし「人生観」であって音楽ではない。
そしてまさにその理由のために、結果として僕はある特定の狭い範囲の「歌」にだけ極端に惹かれる、という傾向がごくはっきりとしている。
そして、そういう僕の偏った音楽論は、往々にして優秀なバンドマンたちにはちっとも理解してもらえないし、話もまったく噛み合わないことが多い。
その理由はもっぱら、僕が人間マニアであって音楽マニアではない、というところにあると思う。


そうして、おやつを食べている間にもテレビには、例によって僕の嫌いなライブドアの堀江さんが出てきていた。
たとえば彼は、価値観の本質を明らかに「経済」に置いている。
ご本人がなんと言おうと、発言のいちいちがそれを前提にしていて、そして笑うべきことに、彼は世間のほかの人々もすべてそういう考え方をしている、もしくはするべきだ、と信じて疑わない。
たとえば、彼は昔なじみの友人らしいMファンドのMさんについて「頭がよく、魅力的な人である。魅力的な人というのはつまり新しい行動を起こす人であるということで~」と延々と語っていた。
でも、そのMさんという人は、話しているところをつらつら見たところ、少しも魅力的な人間ではない。
僕から見た場合のその人は、「ああ、顔といい話し方といい、これは信じてはいけない人間だな」というだけの人物でしかなく、そういう浅薄さを丸出しにして自ら気づかないあたり、お世辞にも「頭がよい」とはいえない。
ただもちろん、その彼は経済畑ですでにかなりの成功を収めている人物であるので、その筋では有能な人なんだろう。

そういう一連の価値観の乖離からはっきりしているのは、僕と堀江さんでは「頭の良し悪し」「魅力の有無」といったものを測る尺度がまったくズレている、という事実だ。
僕は堀江さんという人は頭が悪いと思っているけど、逆に彼が僕を見れば、「無能」という程度の言葉で括りきって、あとは一顧もよこさない可能性が99%だと推測する。
ただ、彼は彼自身の価値尺度以外の尺度の存在にうといがために、僕のように人それぞれの双方向の価値付けの落差を予見する能力は持っていない。
そういう視野の広い狭いという意味で、僕は少なくとも彼よりは勝っていると思っていて、そのことから彼の頭脳や人間性を云々しうるだけの自信を得ている。
もちろん、なんだかんだいっても、彼のように経済に価値基準を置く人は自由主義経済の中では立場は強い。
堀江さん程度の人があれだけ自信満々でいられるのも、まさにそのおかげだけど、それでもやっぱり、万能というわけにはいかない。
まさにその盲点を露呈した格好なのが今回の件で、彼は散々無駄口を叩いて敵を作り、敵たちを感情的にし、対立を生み、その対立をマスメディアに煽らせ、メンツの潰し合いにまで発展させ、結局は自ら招いた泥沼的な状況に苦しんでいる。

まさに昨日も、彼は「だって、みんな仲良く得をする方法があるのに、なんでわざわざ損になることをする必要があるんですか」なんてアナウンサー相手に開き直っていたけど。
「なんで」なんて話ではなくなっているんだよ、今はもう。
人間対人間の関係の中で起きる反射作用が、経済的なメリットやデメリットだけでは測りきれないものだというごく当たり前な事実に、彼は感受性がない。
既存のメディアをことさらにバカにして見せれば、マスメディアは当然その発言に注目し、警戒し、やや否定的なニュアンスを込めつつ報道するだろう。
現にマスメディアに携わっている、被買収側の日本テレビの社員たちは不満と不安をつのらせるだろう。
堀江さんが「支配というのは経済用語として使ったが、それが誤解された。言葉尻を捉えて煽ったあなた方マスメディアのせいだ」と釈明する「支配」という言葉も、経済用語としてのニュアンスとは別の響きを帯びて伝わることになるだろう。
「将棋でいえば詰んでいる」なんて彼は言わない方がよかった。
どれもこれも、ごく当たり前に予見可能な、一連の堀江発言に対する反射に過ぎない。
その程度のことも予測できない頭脳が、自負と自意識に鼻の穴を膨らませつつ、ブラウン管の中で息巻いている。


少し長くなったけど、彼の価値観の中心・本質、が経済にある、というのはおよそ以上のような観察から出ている。
それに対して、僕はといえば、まさに正反対の人間だと思う。
堀江さんが「もっと日本人は経済用語を勉強すべきだ」というのを聞いて、一般論としてそうかもしれないとは思いつつ、自分がそれをやっても仕方がないと思ってほとんど聞き流している。
僕は大学で経済学を専攻していたけど、経済というものには一切、食指が動かずじまいだった。
経済を知らなければ損をする、という堀江さんたち経済家の理屈はわかる。
ある意味、それが正論だろう、とも思う。
でも、興味がない、という事実は動かない。
僕は経済活動に関しては、主体的になりえない人間であるように思う。
堀江さんにはよくわからない話だろうけど、人間には適所というものがあって、僕の適所は、経済活動の主導権を握るポストとは違う場所にある。
という、ただそれだけのことなのだ。
まあたぶん。

言うまでもなく、すでに彼なりに「適所」を得ている堀江さんとは違って、僕の抱えている課題は膨大だ。
ただでさえ、「僕には人間がわかります」なんて言葉は人には受け入れられがたいものだし。
誰だって、人それぞれ、人間というものをわかっている。
堀江さんでさえ、経済的な視点から、彼は彼なりに人間観というものを持っている。
ただそれでも、僕にはたとえば堀江さんの言動から彼の盲点がわかるし、彼に対して巻き起こる反発を事前にリアルに予見できる。
具体的には、彼への反発が必ずしも守旧勢力ばかりでなく、中立であるべき立場からも噴出するであろうことを予期できていた。

誰かの発言を聞いても、音楽を聴いても、小説を読んでも、映画を見ても、テレビCMを見ても、僕は常に作り手の感覚や価値観を無意識に想像している。
そして作り手の感覚や価値観の反映を読み取れる作品を尊び、読み取れない作品を拒絶する。
そして、その作品中に投影された感覚や価値観が僕自身と重なるとき、掛け値なしにほれ込む。
それはこれまでの経験から判断する限り、「作品そのもの」にほれ込む人の感覚とは、かなり根本的に別種のものであるらしい。
だから、「音楽が好きな人」と僕は、必ずしも話が合わない。
この、僕独自の「人間」ないし人生観に視座を置く価値観の体系のようなものを、どうしたら誰の目にも明らかな僕自身の特性・個性として磨き上げ、証明していけるのか、というのが母と交わした会話のメインテーマだった。
そしてもちろん、どうしたらそれを経済的な自立にまでつなげていけるのか。
経済に価値の基準を置く人なら、当座は経済系の資格でも取っておけばいいところかもしれない。
法律なら、弁護士の勉強を進めておくとか。
でも価値観の本質が人間観では、そういう既成のレールに乗るような選択肢は存在しない。
小説を書くにせよ、本を読みまくるにせよ、歌を作るにせよ、価値観の浮き彫りになるようなアフィリエイト・ブログを作ってデータベース化してみるにせよ、あくまでも独自の努力として積み上げていかなくてはならない。


ただ今から何をやるにせよ、人はそれぞれ、その本質を踏み外してはならないものであるらしい。
ということを、今日は会話の中でまざまざと悟った気がした。
たとえば僕は、経済学部に入るべきではなかった。
今からも、たとえば金が必要だからといって安易に財テクになど取り組んでみるべきではない・・・まあ元手もないけど。
あくまでも、僕自身の価値観と興味との中心・本質である「人間」という線を外してはならない。
ということを思った。
そういう意味では、昨日詳しく書いたアフィリエイト・ブログの発想なんかは無理がなくて上出来な方だと思う。
そして、そういう価値観の本質を突き詰めていったとき、それがWさんの言う「天命」(=そのときそのとき、本当にやるべきことは常に1つ、というWさん独特の考え方)にまで行き着くものなのかどうかは、僕にはわからないことだけど。

とにかく、僕自身の価値観の軸が人間観にあって、その価値観を僕は離れてはいけないらしい、ということだけは、なんだかリアルにわかるようになった気がしたのです。
いつの日か、僕が僕自身を世に問うていくために。
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16:39 | 人生観 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

自分自身へのちょっとした疑問

最近抱いている、自分自身へのちょっとした疑問。
なぜ、ことあるごとに「比較」によって物事を論じようとするのか。
この間のシロップ16gのときの、バンプオブチキンほかとの比較論(2/11付の日記)といい。
どっちかがすごく好きで、どっちかが大嫌いだというなら、それはそれでいいかもしれない。
でも、僕はシロップ16gには漠然と好感を持っているもののそこまで熱中しきれていないし、バンプはちょっと苦手というか、「複数の、個人的に一目二目置いている知り合いが評価しているから、たぶん何か僕にわからないよさがあるんだろうと思っている」という程度の状態。
要するに、褒めたり貶したり、と力こぶを入れる必要なんか本当はどこにもないわけだ。

苦手とか、好きじゃないとかいうことはある意味、どうしようもないことだと思う。
でも、それをいわば計量して、「比較」という文脈で論じようとするのは、一種の冒涜かもしれない。
そういう、当たり前といえば当たり前なことを、改めてちょっと考えた。
とはいえ、僕も僕なりに、歌というものが向かっていってほしい究極の一点、のようなものを常に思い描いていて、その一点を僕と共有していてくれそうな歌やバンドやアーティストを足掻くように求めているのではあるけど。
実例としてはコッコ、川本真琴、初期のスガシカオ、たぶんジェフ・バックリー、などがそれに当てはまる。

ただ、比較、という理不尽な態度で人の音楽なり小説なりをうんぬんするとき、果たしてそのことが免罪符となりうるものなのかどうかとなると、僕は自分のことながら釈然としない。
言いたいことを書き散らして、それでいい、とはなれない。
僕はやっぱり、職業評論家になるような人々とはちょっと立つ位置が違っているのだろうと思う。
書かずにはいられなくて現に書いているものの、最終的には何を生み出せるのかがすべてだ、ってことはよくわかっている。
たぶん、僕はこれからも傲慢な比較論を吐き続けて生きていくんだろうけど。
それと同時に、評論や比較論自体にはほとんど価値はない、ってこともジリジリと感じ続けていくんだろうと思う。
何ができる?何が生み出せる?と絶えず自問自答して。

文中に引き合いに出された挙句、批判されたり貶されたりするアーティスト諸氏にはまったく合わせる顔もないけど、僕は根本的には、何かやれてる人はおおむね偉い、と思っているから。
批評家なんて、そこで自足している限りは彼らにまとわりつくコバンザメみたいなもので、僕はコバンザメには別になりたくないし。
やっぱり僕は、何かが生み出したくてああだこうだと書いているんだと思う。
03:19 | 人生観 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Tue.

フラッグの思い出

今から4年前の、ほぼこの時間。
僕の愛犬「フラッグ」がこの世を去りました。
短足でガニ股で頭でっかちの、ちょっとバランスのおかしな、でもれっきとした純血種のアメリカン・ビーグル。
不思議なくらい愛嬌のある犬だった。
特に晩年、病気が多くなるに従って僕との間も打ち解けて、とにかく表情豊かな、スヌーピーの実写版みたいな犬になっていた。

薄れつつある記憶に従うなら、11月22日の日中に、彼は完全な下半身不随に陥った。
その数日前から排便がなくなっていたから、後から思えばあれはたまった便による神経の圧迫だったかもしれない。
これはひそかな後悔の種で、僕が敏感に察して浣腸器を買ってくるなりしていれば彼はまだ生きられたんじゃないかという。
でも、当時の僕は愚かにも、そういう可能性には思い至らずに、より身近で看病しようと玄関にスペースを確保して彼を運び込んだだけだった。

しかも、そのたかだか10メートルの搬送が彼にはかなり骨だったらしくて、様子は明らかに悪くなった。
ただそれでも、僕は彼が急に死ぬというような気はしなくて、ひょっとしたら下半身不随のまま、意外にあと何年も腐れ縁のように生き続けるのではないかという気がしていた。
「いかにも病人って感じになっちゃった」と母に言ったのを憶えている。


そうして、深夜3時10分ごろ。
僕は当時愛飲していたウィスキーのオンザロック片手に居間の共有パソの前に座り、ネット上をウロウロしていた。
突然、玄関から聞き慣れた、でもいつもよりも切迫した甲高い悲鳴が断続的に響いた。
そしてそれと同時に、ただならぬ息遣い。
僕は早足に、でも比較的落ち着いて駆けつけたように思う。
そして、彼が胃の中のものを少し吐きながら、横たわって苦しんでいるのを目の当たりにした。

慌ててかがみこみ、頬をなでたりしたものの、現実感はあまりなかった。
恥ずべきことだけど、酔っ払っていたから、だと思う。
これは「死」だ、という認識が芽生えなかった。
ただ、まさか、と思い、「冗談じゃないよフラッグ」、とだけつぶやいた。
激しい息遣いはたちまち乱れて弱まり、僕の犬は息を引き取った。
唇がひとしきり、呼吸の名残のようにして何度も何度も震えていた。
もう心臓は止まっているのに。
それを見て、もう1度生命を呼び戻したくて、強く身体をこすったりしたような気がしないでもない。

でももう、どうしようもないことだった。
ぼんやりとした頭のまま、これからどうしようかと考えながら、「よく生きた。よく生きたよ。お前には何の不満もないよ。よく生きてくれたよ。・・・」とつぶやいてみたら涙が滲んだ。
尻尾のあたりを見ると、硬い便が少量洩れていた。
死体をどうするかはまだ決めていなかったけど、便を見られることは死んだ犬が嫌がりそうな気がしたので、吐瀉物と共にスコップですくって、たしか庭に埋めた。
家族にもそのことについては何も言わなかった。


それから、物置からダンボールの箱を取ってきて(玄関での寝床代わりだった箱をそのまま流用したような気もする)、犬の身体を抱きかかえて箱の底に静かに横たえた。
フタをして、その上に鉄アレイで重石をし、青いマジックインキで「3時過ぎ、容態急変。死去」というようなことを家族のために書いた。
それからパソの前に戻って、当時の行きつけの持病に関する掲示板に犬の死について書き込んだりしてから寝た。
寝る前に、ずっと何も書いていなかった日記用ノートに長々とフラッグへのメッセージみたいなものを書いた。
書いていて涙がこぼれた。

僕は彼の生きている間じゅう、ずっと持病やら何やらで苦痛の中にいて、でもいつかここから抜け出すんだと念じていて、そして抜け出した後の僕の時間を、彼にも共有してほしいと願っていた。
だから僕が人間らしい余裕を取り戻す前に、彼の死という断絶のときを迎えてしまったことが悲しく、悔しくてしょうがなかった。
それでも、彼は年齢的にはもうおかしくはない歳になっていたから、諦めと、それに何より、感謝の気持ちも大きかった。
常に明るくて、「生きる」ということを決して疑わない、誰よりも僕に身近だった犬に恥ずかしくないような生き方をしていきたい、と強く思った。
そして、彼は果たして、僕と一緒に生きて幸せだっただろうか、と考え続けた。


翌日。
たしか昼過ぎに、母と相談して埋葬場所を決め、僕は彼のダンボールの棺を玄関から庭先に運び出した。
蓋を開けると、死体はまだきれいだった。
それでも毛並みが少しだけ黒ずんで陰気に見えたのは、空一面が白く曇っていたからかもしれない。

母が庭の黄色い花を摘んできて、死体の上に添えた。
それが妙に似合った。
「眠っているようだよ」、と母は言い、涙声になって目頭を押さえた。
彼が晩年、毎年夏になると、暑さに弱いので避難していた木の下の近くに、スコップで大きな穴を掘ってあった。
そこに彼の棺を運んで、棺ごと埋めた。
その上にコンクリートの板を置き、さらに埋めた。
余った土を盛っていくと、小山のように盛り上がった。
その後はもう、やれることもなかった。


いい墓ができた、と思うことで僕は少しだけ落ち着いた。
1月もしないうちに、ダンボールの棺が陥没したらしく、小山は崩れて平らになってしまったけど。
そしてそれが、僕がフラッグのためにした最後の作業になった。
あれからちょうど4年。
長いようで短いようで、肝心の僕はといえば、未だにあのときと同じ苦痛の中をフラフラしている。
せいいっぱい前向きに生きているつもりだけど、果たして彼は認めてくれるだろうか。
思い出すと、少しセンチメンタルになってしまう。

今も庭には、彼が生前暮らしていた6畳サイズの囲いと、その中の茶色い家とがそのままに残っている。
ときどき、今は開け放たれたままの囲いの中で、ノラ猫の子猫たちのじゃれ合う姿が見られる。
03:51 | 人生観 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Fri.

人の死の伝え方

先日、元スーパーマンのクリストファー・リーブの死について日記に書こうとしたときのこと。
文章を書き出すなり、僕は過去にも何度となく胸中をよぎってきた葛藤とまたしても向き合うことになった。
リーブさんが──リーブさんだけに限った話ではないけど──「死んだ」と書くか、それとも「亡くなった」と書くべきなのか。
そこに少しだけためらいを覚えたのだ。
とはいえ、一瞬の躊躇の後、僕はすぐさま、ほとんど習慣的にこう書き出した。
「スーパーマン」クリストファー・リーブが心臓発作で死んだ。享年52歳。
そうして、僕はそのまま先に書き進みながら、でも果たしてこれでいいのか、となんとなく考えあぐねていた。

人の死を聞いて、それを誰かに伝えようとするとき、「死んだ」といわずに「亡くなった」というべきなのかどうか。
僕はいつも「死んだ」と簡潔に書いているけど、そのくせ毎度のようにひるむものをも感じてきている。
それが単に、社会的な慣習に逆らうことへのためらいなのか、それとももう少し別の種類のものなのかは未だによくわからない。
自分なりに、死は「死んだ」としか伝えようがない、という思いは歴然とあって、結局はいつもそれに従ってきてるんだけど。
なぜかといえば、つまり人は生きて死ぬものだから。
亡くなった、というだけで、その尊厳にカスミがかけられたような気がしてくるから。
彼は、生きて、死んだ。と認めてやらなければ、死んだ人が浮かばれないような気がしてきてしまうから。

「スーパーマン」クリストファー・リーブの、全身麻痺に陥って以降の懸命な生き様には、「亡くなった」なんて遠まわしな言い方は似合わない。
なぜ、と訊かれても困るけど、僕はなんとなくそう思う。
「亡くなった」という言葉には、ハレとケの「ケ」に似た響きがあるように思う。
亡くなった、といった瞬間に、彼はもう関係のない世界の住人だ、と決定づけて、それ以上彼について語る口を閉ざしてしまうような響きを僕は感じる。
そして、僕がいつか死んだとき、あいつは死んだよ、と言ってくれる人の存在を喜びたいと思う。
なぜなら、そういう人こそが、生前の僕の生の尊厳を認めていてくれた人だと思うから。

おかしいのかな。
そういう感覚は。
00:00 | 人生観 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
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