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Mon.

僕の鬱について(※激ネガ注意)

ずっと練習しているギター練習の課題曲の1stギターが、どうにかこうにか最後まで通った。
でも、手が動かなくてミスだらけなのは当然としても、それ以前にまったくリズムに乗れてるわけでもないので、終わりの方なんかいったいどういうニュアンスのフレーズなんだか感覚的にまったくわかってなくて、なぞってるだけ。
何もやれずに1日終わるのが嫌でがんばったという感じで、なんとなく本末転倒。
「楽しむ」って感覚とはまったく逆行している。
まあそれは、音楽に限った話じゃないし、そしてもちろん今に始まった話でもないわけだけど。

振り返ってみると、僕が「楽しい」って感覚をはっきり持てていたのは小学校中学年のころが最後だ。
高学年のころになるともう、そこには歴然と不純物が混じっていて、中学2年の夏休みには母に「小学校のころには持っていた、ささやかでも楽しい気持ちなんかがなくなってしまった」と涙ながらに訴えたりしていた。
母はそれに対して、「大人になればそんなもので、みんなそういうのを乗り越えて生きていくのだ」という趣旨のことを言って、たぶん多少は心配だったんだろうけど、気にも留めていないそぶりをしていた。
僕は突き放された思いで打ちひしがれ、でもそうか、そんなものかもしれない、そうじゃなかったら週に6日も働きに出て、夜まで帰れなくてやっていけるはずがない。
でも果たして、僕はこれに慣れられるだろうか、なんて涙の裏で考え込んでいた。

友達関係も同じだった。
友達、というものに対してはもともと臆病な子供だったらしいけど、小学校高学年のころには明確な苦手意識を持つようになっていた。
さらに中学校に入ると、もうはっきりと「友達づきあいというやつをしなければ」、と自分で自分を説得して、意識的に友達の家に行ったりしていた。
部活なんかも、仲間には恵まれていたと思うのに苦痛で仕方なく、いつもいつ帰れるのかと考えてばかりいた。
部活が楽しいはずのものだという認識すら実は持っていなくて、これは事実上の慣習的な義務なんだ、しょうがないんだ、と思っていた。
もちろん、そういう自分の認識や苦痛を人に悟らせるようなことはしなかった。
なにしろ、当時はそういうのが人生というもので、これはこれでしょうがないんだと信じていたから、苦痛は毛ほども見せず、もっともらしく溶け込む努力をしていた。

でもそういう僕の長年の違和感は、Wさんに言わせれば単純明快に「鬱」だ。
人間は本来、群れで行動する猿から進化した動物だし、人類になってからの歴史も常に集団行動だった。
そういう条件下で生き残ってきた遺伝子が、本質的に「同族を嫌う」はずがない。
仮にそういう「同族を嫌う」遺伝子を持つ個体がいたとすれば、彼はいかに素質的に強健であったとしても、進化の過程で子孫を残せずに根絶しているはずだ。
ただ例外的に、本来は同族との行動を好むはずの個体が、身体が弱り(特に心臓)、群での行動についていけなくなった場合にのみ、「同族を嫌う」ということが起こりうる。
つまり、そのコンディションの下で群に従って動けば、むしろ負担が大きくなり、結果的に生命が危険になるような条件下においてのみ、自己防衛のために「同族を嫌い」、1人で引きこもろうとするような反射が生まれる。
それが「鬱」である、とWさんは言う。

僕の場合は、極度に若く、普通なら体力があるためにちょっとやそっとの不具合なら表面的には健康でいられるはずの年齢で、心臓系統の不具合=「心墟」と、それに伴う鬱、さらには持病であるIBS、体力の欠落その他の諸問題、が表面化している。
だから、そのことは僕の身体が根本的に、いかに深く壊れているか、またそれ以降も壊れ続けてきてしまったか、を意味するものに他ならない。
まったく気の遠くなるような悲惨な分析だけど、僕のこれまで通ってきた人生の過程とか、抱き続けた違和感とは見事に符合していて、僕には彼の分析および治療方針を否定することができない。
僕はおそらく、人生の大半を鬱のうちに過ごしてきたし、友達を作ることを避けてきたし、せっかくできた友達などに対しても苦痛を感じながら交際してこざるを得なかった。

でも、それは「偽ってきた」という意味じゃないことをわかってほしい。
僕はいつも、抵抗なく誰かと一緒にいることができていない自分自身を持て余したり疑問視したりしながら、誰かと一緒にいたりしてきた。
それを維持することは、絶対に必要だったと、いま振り返ってみても思う。
その線を越えて自分自身に素直になり、相手に対しても誠意を守ることは、孤独の中で自殺するという結末と同義だったと思う。
それを避けようとして、僕は自分という人間が少しずつでも変わっていけることを祈りつつ、人と関わり続けた。
手狭で薄っぺらな、不自然な関係ではあるにせよ、優れた人たちへの敬意だけは本物だったから、それがかろうじて僕を自己嫌悪から救ってくれた。
人との関係を今のようにほとんど断ってしまうということは、浪人時代の1年間を除けば人生を通じて今が初めてだ。

だから今の僕には、嘘はない。
嘘はないけれども、苦しさは肌身に迫ってくる。
そういえば、鬱のときには、人を避けて自分の命を守ろうとする反射と同時に、人に嫌われることを極度に恐れる心理が起きるのだとWさんも言っていた。
要するに、孤独になろうとするくせに、その孤独が普通のとき以上に心身に応えるのだ。
まさにそういう状況の中に、今の僕はいる。
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23:29 | 病的独白 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Tue.

自立考

自立、ってことが少しまた心にのしかかってきている。
僕は今年1年、いろんな人たちに依存してきたと思う。
これはネット上に限らずだけど、ネット上に限ってみたって実に大変な依存ぶり。
そして、この依存というやつは、「本来は自立していて、いつでも自立状態に戻れる」人がしていれば美しく、「依存せざるをえない」人がしていれば醜くなる、という傾向があると思う。
特に、「自立の余地があるのになんだかんだで依存せざるをえなくなっている人」がしていたりすれば最悪で、僕に好感を持てない人というのは大半、意識的にせよ無意識にせよ、僕に対してそういう認識を抱いているのじゃないかと思う。
僕自身も、そのへんが実は部分的にはあやふやで、「いつ?いつ動き出せる?いつ踏み切ればいい?いつまでに踏み切らないと醜くなる?まだ間に合うのか?一体いつまで?」という自問自答をのべつまくなし繰り広げている。
それが精神的な圧迫になって、たぶん言動からもゆとりを奪っていると思うのだけど。

最近、精一杯コントロールしていたつもりでもなお、ネット上で人を幻滅させていたという手痛い経験をして、どうやら急激にそのへんの意識が高まってきているらしい。
でも、だからといって自分らしいバランスを取り戻す手立てがつかめているわけではないから、少し混乱してしまっている。
たぶん、僕はずっとずっと何年もの昔から、卑屈になることが怖かった。
卑屈になったらおしまいだ、という意識はものすごく強かったし、僕の危険性はもっぱらそこにある、と信じ込んでいた。
だけど、実はそうじゃなかったのかもしれない。
卑屈になるまいとして、必死で胸を張り、背筋を伸ばして、逆に押し付けがましくなる危険だって当然あった、のかもしれない。
まあこのあたりは、まだ憶測の域を出ないけど。


そして、そういう危険性の根というのはひょっとしたら、事情がどうあれ僕が現に自立できていないという一点にあるのかも、とちょっと思ってしまったわけなのです。
極論だけど、誰が離れていっても自分は自分といいうるほどの余裕があるなら、誰も離れてなどいかないんじゃないだろうか。
もちろん性格的なものもあるにせよ、少なくとも僕の性格なら。
でも、余裕がなくて内面がジェットコースターのようなら、どうコントロールしたって自分を維持できない部分がどこかに顔を覗かせる。
そして、そういう「コントロールできない部分」まで含めた全体像がいわゆる人間性というものなので、それを見て幻滅する人だって出てくるだろうし、その幻滅を責めるわけにもいかない。
たとえば、それは本当の僕じゃない、なんていう言い訳は通用しない。
それでも、僕は僕なりに試行錯誤したり軌道修正したりしつつ、自分らしさを守って前向きに、一歩一歩やっていくしかないわけだけど。

トラブルが降りかかるまで、僕はすっかり安心していた部分があった。
少なくとも、この一点では、僕は成長できた、ここでは僕は安心していていいんだ、という甘えがあった、のかもしれない。
でもひょっとしたら、本当に安心できる日なんてものは、文字通りの意味での自立を果たすときまでやってこないものなのかも。
今はなんとなく、そういうふうに思っている。
18:42 | 病的独白 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Fri.

鬱の嵐の吹き抜ける夜に

・・・まずい。
急激に鬱になって眠れなくなって、居ても立ってもいられなくなって起き出してしまった。
こういうときに考えるのは、もう手遅れなんじゃないかってことだ。
10月になる(というか、もうなってる)ことなんか思い出すんじゃなかった。

そういえばニートに関する議論。
日本にニート52万人、というけど、あれはあまり真に受けないでもらいたいね。
僕と同様、いろいろの現代病に取り憑かれて、死ぬ思いして孤立して、周りの理解も充分には得られないまま苦しんでる連中も、あの中にはとうぜんカウントされてるはずだから。
かくいう僕自身も、たぶん統計上は「ニート」の中に入る。
52万人が、「52万人」じゃなく、本当は「1+1+1+1+・・・」の総和だってことを忘れないでほしい。
一括で対策を立てようなんて考えるのは、政府や公共団体だけで充分だ。
訳知り顔でもっともらしい議論なんか、もうやめにしてほしい。

僕自身の手遅れ感についてだけど、それはやっぱり、たとえばWさんの能力が仮に掛け値なしの本物で、半年後や1年後にほぼ完璧に健康な肉体を取り戻したとして、いったいそこから僕は何ができるのか、とか。
いくら身体が治ったって、僕が持病に取り憑かれた中2の夏休み明けにまでタイムスリップしてやり直せるわけじゃない。
いったい何をどこまで取り戻せるっていうのか?
なんてことももちろんその1つだ。
いやそれどころか、治ったが最後必死で生活を立て直すために就職活動して、働いて、必要な資格があれば勉強して、・・・という、まるで社会復帰のためのリハビリみたいな惨めな暮らしが待ってるだけじゃないのか。とか。

こういう見通しはあまりにもネガで卑屈に映るかもしれないけど、でも考えてもみてほしい。
僕には物心ついて以来、健康な身体で生きていた時期というのがないんだよ。
健康な身体であれば、こんなことができるとか、そもそもこんなことが「したくなる」、ということが、感覚的にまったく理解できてない。
生きていたくなるものだろうか?強靭な意志の力と、自分自身への罵倒、激励といったものなしで?
僕は無理に無理を重ねて、無理ばかりしてきた、とこれまで飽きもせず書いてきてしまったけど、実のところ「無理をしてない」状態がどういうものなのか知らない。
無理があるのが当たり前で、無理を押して何かしているのが常態だった。

そこからどういうふうに価値観が変動していくのか、がわからない。
変動しないとすればそれはまた新しい地獄ってものだけど、Wさんにいわせればそういうものではないらしい。
身体と心は連動しているのであって、大きくいえば、性格そのものが変わってしまうらしい。
しかしそれは本当なのか?
いやつまり、一般論としては紛れもない本当のことだとしても、こう十数年にもわたって刷り込まれた虚無感が、きれいに雲散霧消して生きていけるものなのか?
雲散霧消は大げさとしても、気になって身動きがつかないような圧迫としては存在しなくなるものなのか?
疑念と不安は尽きることもなく。

忘れろ、やめろ、眠ってしまえ、と自分に言い聞かせても、思い出す流れに乗ってしまえば自分ではどうしようもない。
呻いてるか、ときどき叫ぶとかするか、してもがき続けなきゃならない。
それがあまりにも辛いから、今はこうして書いてる。
せっかく今日はわりとポジな記述を並べていたのに台無しだけど、しょうがない。
これが実情だから。
僕は顔を合わせる人たちや町行く人々に真人間だと思わせるのはとても上手だ。
というか、これまでの生活の中で熟練している。
でも薄皮一枚めくればこんな状態だ。
気も狂わんばかりに苦しいのを、ポーカーフェイスその他で包みきって、ここまで生きてきただけだ。
そのことを思うと、自殺衝動に似たもの(けれども、明らかに似て非なるもの・・・僕には自殺するという素質がそもそも欠落しているように思う)がこみ上げてくる。

なんて不毛な。
選択の余地はなかったけど、ここまでどうしようもないものだと知っていれば、僕はある段階で死を選んでいたかもしれない。
僕は幸か不幸か、人生のそのときどきには、どこか根の部分で楽天的だった。
どこかで好転するものだと信じてきた。
たとえば、2年近く前に今の治療法を始めたときなどは、その楽天的の最たる状態だった。
でも今は苦しい。
可能性を信じていないわけではないけど、過ぎていく1秒1秒の重みが苦しい。
それを、せめて人並みに生かし切ることは、今の状態ではまだまだ、とてもできない。
できないのだから焦るべきではないのだけど、それは机上の空論というもので、ちょっとした拍子に気が狂いそうな焦燥に駆られてしまう・・・。

どうも同じことばかり書いているような自覚があるけど、堂々巡りというのもまた鬱状態のときの1つの特徴で、驚くには当たらない。
だけどまあ、そろそろやめにしようか。
いくら書きなぐってみたって、これを読んでくれるのは僕の窮状をある程度まで理解してくれている理解者の人たちだけだろうし。
その人たちにとっては、痛いだけであまり新しい発見もない文章だろうし。
書いてると気が紛れるってだけではね。
あまりにも自己満足すぎるってことになるだろうから。
こうなったらもう、4時半からのメジャーリーグでも見てやろうかな。
まったく、根がくたびれる運命を生きている。
04:08 | 病的独白 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Fri.

経済生活のリアリティ

今日は朝からくたびれ気味で、ギターは最後まで手につかなかったものの、ウォーキングは実に調子よく、前へ前へと歩いてきました。
30分、ちゃんとスピードを落とさずに歩けたのは1ヶ月ぶり以上だな。
夜は疲れたのか、急にすとんと眠り込んでしまったりもしたけど、やっぱりコンディションの底上げができてきてるんだと思う。
このまま、最悪のスランプからだけでも脱出できるものなら、また曲を作りたいな。
僕の生活を圧迫している圧倒的な無為感と無力感に太刀打ちするために。


証明が必要なんだよ。やっぱり。
心から笑うことさえできずにこの十何年を生きてきて、それでもこの人生が無意味じゃないと言えるために。
経済生活が前提だ、そこが抜けたら本末転倒だ、なんていわゆる正論を聞くと、毒々しい笑いがこみ上げてくる。
「生きる」こと自体を肯定できない限り、明日のご飯の意味はリアルにならないだろう?
まあまあ健康に生きてきた人には、何十歳になろうがわからない部分なんだろうけど。
極楽トンボの言うセリフだよ、そんなのは。


僕はずっと、夢を語ったことがなかった、と思っている。
小説を書こうが音楽を作ろうが、それは全部、地獄の底から這い上がろうとするもがきに過ぎなかった。(何が地獄?という人はプロフィールの略歴参照)
生きることに必然性があった時期というやつがなかった。
ただただ、意思の力で維持してきただけで。

生きることに必然性を感じている人は、どこかで遊んで楽しかったりする。
どこかで遊ぶために、高校時代にどこかでバイトしてみたりする。
バイトしてためたお金でどこかに行って遊んで、やっぱり楽しかったりする。
そして正社員をしてる先輩におごってもらって、正社員はやっぱりバイトより稼げるんだなあ、ちょっと大変そうだけどある意味うらやましいな、と思ったりする。
海外旅行を夢見て、時給いくらで働いてやっとためた何十万を投入して、どこかの国を見てきたりする。
あるいは、念願の車を買ったりとか。
そうこうするうちに、自分も正社員だったら、時間的には苦しくてもお金って意味じゃいろいろ自由になるんだよな、なんて頭の隅で気づいていったりする。
そして、時が来て就職活動をしなきゃとなったときに、考えようによってはそれも悪くないかな、と思えるくらいの境地には達していたりする。

そうした過程のすべてが、僕の人生からは欠落していた。


僕は今、まだ働きたくない。
小手先のバイトならともかく、ちゃんと働いて生計を立てたくない。
生きる必然性のないところに、金を稼ぐ必然性はない。
ましてや精神的には鬱、体力的には虚弱、持病も完治とはほど遠く、といった現状にあってはなおさらだ。
僕はまず、生きることを肯定できるようにならないと。
そのためには、何よりも身体を治すことが先決なのだけど、それも一朝一夕にはいきそうにもない。

だから僕は、さしあたって次の曲を作りたい。
もちろん、いま現に飢えて、明日の食料のために理も非もなく働いている人々と比べれば、多少の甘さは否めない、とは思う。
ただそれでも、僕は僕なりの筋を通しているつもりだ。
僕の青年期は生きることだけで精一杯のうちに過ぎたけど、そこでは生き死には常に食料(経済)問題じゃなく、自分の生活の無意味性という形をとっていた。
それだけでも充分、持病の問題とあいまって、発狂せんばかりのリアルな苦しみだった。
太宰治じゃないけど、僕にとって「食わないと死ぬ、だから稼げ」という理屈は全然まったく、リアルじゃない。
僕は現に生き死にの境を漂い続けてきて、そこで僕を支えてくれたのは常に表現することへの努力であって、金や食料ではなかった。
実際は親のスネをかじっていただけにせよ、僕の心情では、金どころではなかった。


そして僕を取り巻く状況は、僕の主観の中では、少しも変化していない。
身体の問題は十数年にわたって僕を蝕み続けてきているし、僕は表現することで自分自身を支え、鼓舞し続けてきた。
これをやめるわけにはいかない、と思う。
それでもほかの生き方があるというなら、教えてもらいたい。と思う。
僕はまだ、これを続けていかなければならない。
00:00 | 病的独白 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

深刻なる愚痴

昨日の治療では、足を中心に施療。
最後に鳩尾をやって終了。
足の治療の際、僕の全身的な不調の原因になっているらしい足の「固まっている」範囲が、踵周辺だけではなく足先まで及んでいるという説明があった。
踵だけでも大変なのだけど、足先までとなるとよほどの重症で、悪くすると「僕の治療技術が今のまま進歩しないとすると、最悪で1年くらいかかるかもしれない」。
のだそうな。
ここしばらくは期限を予告しての治療は避けてるみたいだったから、べつに今さらショックとかはないんだけど。
ああやれやれって感じです。

1年。
それも、そんじょそこらの健康人の1年じゃない。
26年間、そこそこマトモに生きられてきた人間だって、今日から1年間はあなたは不調続きですよ、と宣告されたらけっこう参るでしょう。
ところが僕は、同じような不調に中2のときから直面し続けてきている。
それも症状が表面化して、はっきりと自覚したのが中2のときなのであって、実際の問題はそれよりもずいぶん前から存在していたらしい。
もう正直、勤続疲労もいいところです。
この期に及んで、また一年。
人生の時間はどんどん減っていくというのに。
まるで心身の不調と戦うために生まれてきたかのような時間が、すでに13年近く。
それがさらに、14年に延びる。
このことの意味を、リアルに想像できる人はいるかな。

・・・なんだか泣かんばかりの文体になっていそうだけど。
実のところ、泣くほどの感情の揺らぎは僕にはないです。
慣れというか、慢性的な諦めというか。
そういうものが悲しみをさえ邪魔している。
普段、この日記にはその日その日の心身の不調みたいな卑小なことばかり書いているけど、僕の実際の苦しみというのはそんなところにはない。
そんなところにはないから、いつも気軽に書けているのであって。
本当に苦しいのは、人生が捻じ曲がってどんどん時間ばかりが経っていくというのに、それをどうすることもできないという現実。
そしてその現実が、どんどん堆積して13年、14年という歳月にまでなってきているという事実。

一人前に悩んでいるつもりの人たちを、ときどき憎んでしまう。
あなたの悩み苦しみは、市販の人生読本や日曜版の悩み相談コーナーにさえ出てきてるじゃありませんか。
黙って読んで、解決策を探したらいい。仲間も相談者も、腐るほどいる。
死ぬほど悩み苦しんで、類例を求めて図書館中ひっくり返したって、仲間1人見つけられない人間の苦しみを思うがいい。
そしてもう1つ、似たような記述を繰り返すけど。
・・・なんだか人も殺さんばかりの文体になっていそうだけど、そこまで人を憎むほどの感情の弾みというのも、正直、今の僕にはないのです。
00:00 | 病的独白 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
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