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Wed.

永遠の名曲

永遠の名曲ってものはたしかに存在する。
あたりまえじゃん、という反応を示すのはたぶん、音楽をあまり主体的にやったことがない人だと思う。
そのことの良し悪しではなくて、ただ単にそう思う。

自分でバンドを組んだり、作曲に取り組んだり、あるいはそうした活動を通じて音楽仲間と知り合ったり、という経験を持っている人は、耳も肥えれば耳学問も肥えて、多かれ少なかれマニアックな好みを持たざるをえないようになってくる。
僕ももちろん例外であるはずもなく、僕と同様の抑圧や疎外感を歌っているように見える一部のシンガーソングライターたちへの点はことのほか甘い。


そうしたシンガーソングライターたちの名前をずらずらと並べることは、プロフィールの方で散々やっているからここでは繰り返さない。
ただ、一人だけ例を挙げるならジョン・レノンがいい。
いやジョン・レノンというより、「ビートルズが好きだ」という発言がしょっちゅう引き起こす、ある決まりきった反応について語るのが一番手っ取り早そうだ。
僕がいっているのは、世間に流通しているビートルズ=バラードという陳腐きわまりない常識のことだけど。

ビートルズには、たしかに珠玉のバラードと呼ぶにふさわしいメロディアスな名曲群がある。“Let it be”、“Hey Jude”、“Something”、“Here comes the sun”などなど。
それらがビートルズの代名詞のように広くまかり通っているものだから、僕なんぞがビートルズをちょっとでも褒めた日には、たちまち話し相手の顔には、ああおなじみのバラードか、たしかにきれいだけどちょっとおとなしいね、といった表情が浮かぶ。
でも事実はそれとはちょっと違う。


僕が本当に好きなのは、アルバムでいえばホワイトアルバム(ちなみに次点は“Revolver”)、曲名でいうなら“Yeah Blues”、“Rain”、“I'm so tired”、“Taxman”、“Come together”などだ。
どれもが個人的な色調を帯びて、いわゆる世間並みの名曲とは別種の魅力を秘めている。
バラードに名曲が多いポール・マッカートニーに対して、ビートルズのこうした流れはジョン・レノンによって代表されている。
もちろん、そういう種類の曲も名曲と呼んでしまって一向に差し支えないのだけど、世間の(リスナーサイドの)スタンダードではたぶん、これらは名曲とは呼ばれにくいだろうと思う。

そういうひねくれた僕の耳で聞いてしまうと、メロディアスでキャッチ―で、広く名曲といわれているものの中には、まったく平凡陳腐で誰にでも作れそうな(実際やれば難しいにしても)曲だな、という印象しかもてないものも多かったりするわけだ。


ところがその一方で、僕でさえ「この曲は全然好みじゃないし買おうとも思わないけど、でもまぎれもない名曲だな」と思ってしまう曲が現に存在している。
そういう曲のことを、まさに個人の好みを超越してしまうという点から、僕はひそかに永遠の名曲と呼びならわしている。
たぶん時代とともに音楽の流行やスタイルが移ろっても、それらは(広く、世間的に)名曲でありつづけるだろう。

たとえば、井上陽水の“少年時代”。「私の心は夏模様~」と歌っているあれだ。あと中島みゆきの“時代”とか。最近聴いた中では、森田童子“ぼくたちの失敗”も悪くなかった(ドラマには興味がもてなかったが)。
どれも、僕の好みとはかけ離れた場所にある歌だ。
耳に残るメロディーと、心地よい素朴さ、世界観に没入するにはやや気恥ずかしい正統的な言葉、といったものを兼ね備えていて、それに加えてむげには否定できない何かがある。


否定できないというより、否定したくないのかもしれない。
世に腐るほどいるマニアックなミュージシャンたちにも、むやみに否定してもらいたくないと僕は思っている。
たとえば大きな美しいダイヤを見て、開口一番「それは炭素の塊に過ぎない」と言わずにいられない人間と、いっときでも息を呑んで見つめてしまう人間とでは天と地ほども違う。
吸い込まれるように見つめてから、これは俺が求めてるものとは違う、といって目を離せばいいだけのことなのに。

なまじ音楽をかじったばっかりに、感受性の範囲を自分で狭めてしまうとしたら、それほどつまらないことはない。
「耳が肥えた」などと言って粋がる前に、一度は自分の感受性を疑ってみてほしい。案外、美しいものを見過ごしていることに気づくかもしれない。
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Fri.

テレビCMのちょっとした感想

テレビCMってものを、僕はひとつの創造の場として捉えている。
たかだか10秒単位の、しかも大抵の人にとってはどうでもいい商品を売るための映像とはいえ、創り手の感性ははっきりと現れてくる。
そういう目で見てさえいれば。
僕もものを創ることに関心のある人間だから、ほとんど無意識のうちにCMの良し悪しや、どこがよくてどこが悪いのか、なんてことを絶えず思いながら見てる。さらに冴えてるときだったら、自分だったらどうするか、なんてことまで踏み込んで考えてしまう。
やれるもんならやってみろ、っていう話はおいといて。(笑)
最近のそうした「作品」の中でも、特に僕が魅力を感じてるのが味の素クノールの宣伝なんだけど。

商品によってCMも2シリーズあるけど、そのどっちもがいいってわけではなくて、僕が推したいのは「宮崎あおい」という新進の女優(まだ10代らしい)が出てる方。
「たっぷり、話をした。たっぷり、味わった」というナレーションが入ってるやつです。
宮崎あおいなんていってもまだ名前知ってる人の方が少ないと思うけど、僕もぜんぜん知らなかったから心配はご無用(……僕が疎いだけか?)。
ネットで調べたところでは、もう映画なんかにも少しは出たことがあるらしい。


何はともあれ、あの子が女優として本物だってことだけは保証しときます。本当に。
今後、芸能界でどのくらい成功するかは知らないし、ひょっとしたらむしろ舞台とか、そういう方向を志向していくのかもしれないけど、どういう形であれ彼女はものになっていくと思う。
そして僕が感心したのは、あの子個人の魅力ばかりじゃなくて、それを最高の純度で引き出したCMの脚本、演出、編集、その他すべて。
いったいどういうスタッフがやってるんだろうと思う。その現場にもぐりこんで、あの「作品」が出来上がっていく過程のすべてに立ち会いたいと思うくらい素敵なCMに仕上がっていて、僕はすっかり惚れ込んでしまった。

まあ、CM終了後に広く一般に残るのはCMの演出家や脚本家じゃなくて、主演したあの宮崎あおいさんってことになるわけだけど。
その意味でも、彼女には本当に注目。
人の心を動かすだけの演技ができるには、相応の中身が必要だと僕は信じたいのだけど、彼女にはそれがあると見た。

宮崎あおい。
この名前と、あのCMだけでも覚えておいたら、10年後くらいにはずいぶん面白いかもしれないと本気で思っている。


最後に、最近気に入っているそのほかのCMを思いつくままに列挙しときます。
・HITACHIのプラズマテレビ“Wooo”─「その手触りは、Woooで見ろ」(ロングバージョン)
・カラダバランス飲料“ダカラ”─言わずと知れた「小便小僧」シリーズ。
・SONYハンディカム─「春色ハンディカム、咲きました」

このへんはとても好き。
まだまだあるはずだけど、夜も遅いせいかぜんぜん思い浮かばない……。(笑)
00:00 | 雑談・座談 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

NHK大河ドラマの終焉

今日はNHK大河ドラマの武蔵を見た。2分くらいだけど。
有名な「一乗寺下がり松」の決闘シーンだったようで、武蔵は追いすがる敵の手勢と戦いながら、田んぼの畦道を逃げていた。
名シーンのはずだけど、どうして2分しか見なかったかといえば、それはあまりにも描写にリアリティがなかったから。

武蔵が、走っていないわけです。何十人もの敵に追われていながら。
武蔵が、鬼のような顔で振り返る。その形相に射すくめられて、敵がたじろぐ。田んぼにずり落ちる。武蔵が、剣を構える。敵が後ずさる。・・・なんていう描写ばかりで。
もともと、原作の吉川英治の作品自体もヒロイックな感じが強すぎてあまり好きではなかったんだけど、あんな甘ったれたふざけた描写は原作にもなかった。


同じ吉川作品を題材に、だいぶ前に撮られた映画シリーズも最近少し見たけど、そっちはいくらなんでも2分でげんなりなんてことはない。
魅力的なシーンに引き込まれて、結局途中から終わりまで見てしまったのもあったくらい。
僕がいってるのは、若いころの高倉健が佐々木小次郎役で出てるやつのことですが。

そっちの作品の、同じ一乗寺下がり松と比べてみると、その差は歴然としてる。
そっちの武蔵は、死に物狂いで走る。意味のわからないことを叫び、田んぼの泥にまみれ、悪鬼というよりはほとんど断末魔の形相で、猟師たちに追い詰められた手負いの猪のようになりながら見苦しく逃げる。
ただ生き延びるためだけに。
100人近い吉岡一門を相手にした決闘に、ひとりで挑んだダンディズムはもう跡形もない。潔さなどカケラもなく、ただ生きることへの執念だけがぎらぎらと伝わってくる。


武蔵というのはもともと、実在したことは確かだけど、経歴に謎の部分が多い。
小説家や演出家、映画監督にとっては、作りこむ余地がいくらでもあって、さぞ魅力的な素材ってことになるんだろうと思う。
だけど、NHK大河ドラマの、あんなオママゴトみたいな武蔵なんか僕は捏造されたくはない。
剣だけを頼りに、名声欲にも出世欲にもひと一倍燃えながら諸国を渡り歩いた剣豪が、あんなミメウルワシイ気色悪い立ち回りを演じて生き延びられてたまるかといいたい。

べつに、多くを期待して見たわけじゃないんだからここまで怒らなくてもいいのかもしれないけど。
もともと、「お通さん」役が米倉涼子だと聞いた時点でおよその見当はついてはいたんだけど。
だけど、それでも。いくらなんでもあれはひどすぎた。
必死で生き抜いた過去の人物を、その人格の本質に迫る努力もしないで汚さないでほしい。


NHKの大河ドラマに関しては、実はここ数年かなりアタマに来ているのです。
この前(前の前?)の前田利家しかり。
あの天才児の織田信長がソリマチだってぇ!?・・・という衝撃に始まって、それから今川勢との小競り合いのシーンをちらっと見て、それで全てが終わった。
今川方のちゃんとしたサムライたち(鞍のついた馬に乗って、きらびやかな鎧を着ているんだから野武士ではない)が、利家たちの治める農村に攻めてくるんだけど。
まず、彼らが何を狙って攻めてきたのかがさっぱりわからない。それらしい伏線もなかったし。

正規のサムライが、何の意図もなくはるばる動員されて、大したものがあるでもないちっぽけな農村に押し寄せてくる、という時点であのエピソードのリアリティはゼロです。
しかも彼らは、利家の統率する百姓たちやそのカミさんたち(!)に、クワや投石で追い立てられて、ほうほうの態で逃げていく、という設定。
あのシーンの時代考証はどうなってるんだろう。
なんにせよ、1、2世代後に見られても恥ずかしくないドラマを作ろうという意志は、前田利家にも今回の武蔵にもまるで感じられない。
そんな気は最初からない、という制作サイドの姿勢がありありと伝わってきて、本当にムシズが走る思いだった。


昔からその程度のシリーズだったんなら、ゴミは最初からゴミなんだし諦めはつきます。
むしろこんなに正気で怒る方がバカってことになると思う。
だけど、かつてのNHKの大河ドラマにはもうすこし上等な意志が感じられた。
それが気のせいではなかったのを僕が確かめたのは、去年か一昨年に1放送回分だけ見た「風林火山」の再放送だったんだけど。

信玄役は中井貴一で、そのキャスティングは個人的にはどうかと思うものの、全編を貫くコンセプトは明確そのものだった。
まず、ドラマ中の大部分を占める屋内シーンで目についたのは、極端なまでの画像の暗さ。特に夜の場面にもなると、隅の方にいる登場人物なんか、とっさに全身が見えないくらい。
どろどろとした重苦しい空気までもが伝わってくるようで、それはリアルタイムで見ていた当時には幼かったせいか気づかないでいた部分だったから、改めて目を引かれた。

そしてそれと鮮やかなコントラストを描き出す、出陣シーンでの空の明るさ。
だけどもちろん、現実がそうであったとおり、華やかな出撃の場面なんてものはドラマの中でも本当に稀で、大抵の回はほとんど屋内のシーンばかりで進行していく。
だからこそ、広い空の下での戦闘の華々しさや、その中で訪れる生き死にの生々しいやりとりが、まざまざとこちらに迫ってくるようだった。

それから10年あまり、ってことになるのかな。
NHK大河ドラマは地に墜ちた。
今回の武蔵なんか、主演のひとが武蔵の姿で記者会見するのを見たときは、なかなか迫力があったからちょっと期待したりもしたんだけど。
その後で脇役のキャスティングを聞いていくうちに、ああ今回もダメだ、と思って。
案の定。


どうせ作るなら、マトモな歴史ドラマを作ってほしい。
“マトモ”の定義は本当に難しくて、僕なんかコメディタッチの「竜馬におまかせ」というドラマが大好きだったりもするから微妙なんだけど。
要は、過去に実在した人物たち、その時代時代を必死で生きて死んでいった人物たちに、あらん限りの敬意を持ってちゃんと相対しているのかどうか。
その結果なら、僕はどんな演出も受け容れられると思う。

敬意と愛着をもって扱っている限りは、どれだけデフォルメしようと笑いのめそうと構わない。
だけど僕が今日、武蔵を見て感じた怒りと、憎悪に近いような感情は、手前味噌になるけど宮本武蔵が生きてあの演出を見たら感じたであろうものと通じると思う。
武蔵は超人ではない。たとえ超人的な剣豪だったとしても、それとこれとは別の話だ。
彼もまた、ある時代に実在して、必死で生きて悩み、窮地に陥っては死にたくないと思い、名声や富に憬れては失敗を繰り返し、試行錯誤をしつづけた生身の人間だ。


ここまで書いてきたものを読んで、何をムキになって怒ってるの、という人もいるかもしれない。
だけど、このことについては僕は誰にどうバカにされようが構わない。
人間の尊厳というのは絶対に、ああいう世界観の中にあるものではないから。
僕はあの武蔵を決して認めない。
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