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Mon.

横綱・朝青龍の品格

モンゴル人横綱・朝青龍の品格問題。
頭の固い横綱審議委員たちがだいぶ目くじらを立ててるようだけど、僕は完璧に擁護派です。
たしかに、旭鷲山戦での負け惜しみぶりは、ニュースで見た限りでもひどいものだった。あれは今後直していかなければならない彼の欠点だと思う。
そこまでは、僕の意見も横審と何ひとつ変わりはない。
でも、それが「横綱にふさわしい品格を欠いている」となった時点で、話はまったく噛み合わなくなってくる。


そもそも、「品格」って何だろう。
ニュースでは誰もが品格品格と連呼するばかりで、品格とは何か、という話は誰もしていないようだったけど。
そんなに品格っていうのは誰にとっても自明の素朴な概念なんだろうか。
僕にいわせれば横審をはじめ、朝青龍嫌いの人たちは、軒並みこの「品格」という小難しい言葉をずいぶん表面的な、単純化された形で捉えようとしている。
一言でいうなら「四六時中、聖人君子でありつづけること」。これだ。

僕の不満も当然、そこにある。
そんな料簡で横綱を決められた日には、横綱はみんな人間的には面白みのカケラもない、卑小な俗物ばかりということになってしまう。
過去を考えれば、確かにそういう横綱も存在したように思うが、僕はそういう種類の人間に敬意を払うことはできない。
僕にとっての品格とは、横審のお偉方の言う品格とは根本的に別のものだ。
朝青龍の今場所の経緯の中には、そういう僕にとっての「品格」を心地よく満たしている部分がいくつかあった。
それこそが、僕が臆面もなく朝青龍擁護派を名乗れる最大の根拠でもある。


たとえば、品格騒動の翌日の取り組みでのこと。満場の微妙な空気の中、朝青龍は見事に快勝してみせた。
そのさらに翌日、一部の新聞には彼が「批判もどこ吹く風と」快勝した、という趣旨の論評が載っていた。
あたかも批判を受けてうつむき、消え入るように負けてしまうことが反省の証だとでも言わんばかりに。

でも、僕は訊きたい。
マスコミに叩かれて落ち込んで、消え入るように負けてしまうことが本当に反省の証や、ひいては品格の証明になるとでもいうつもりなのか。
横綱なら横綱らしく、誹謗中傷の中でも毅然と胸を張って、地位にふさわしい相撲をとって、自分自身を証明してみせるべきじゃないのか。
ともあれ、鬼の首を獲ったように品格品格を連呼している横審のお年寄りたちは、僕にいわせればまったく救いがたい俗物というほかはない。

だいたい、今の横審に「品格ある」委員が何人いるか。
この品格という言葉の解釈一つとっても、問題はとても複雑で、とうてい一言二言で語れるようなものではない。
そのことに気づきもしないで、品格という単語だけを安易に一人歩きさせている彼らの無感覚ぶりこそ、まさに日本の国技の恥さらしだと思う。
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Mon.

画家たちの混沌のパレット

ここしばらく、ある絵画サイトを頻繁に覗くようになった。絵を公開してるサイトにしては珍しく、すべてアナログな水彩の絵なのが目を引いて、それで通うようになったHP。
ただ、その人は最近は絵を描いていないらしくて、僕にはそれがちょっと不思議だった。

僕の目で見た範囲では絵はとても上手で魅力があるし、なにもそんなに力みかえった大作ばかり描いてた感じでもないのに、なんでやめちゃったのかなと思って。
それで、掲示板でそれとなく訊いてみたんだけど。
そのときに思いがけず、絵にまつわる面白い話を聞かせてもらうことになった。


最近描いていないのは、要は忙しいってことらしいんだけど。
ただ絵をやめたときに、それまでずっと使ってきて、使いたい色がいつでも出せるようになっていたパレットを洗ってしまって、そのことはすごく後悔した、と。
その話を聞いて、僕は画家ってものが画風の変化とともに育てていくのであろうパレットというものに、にわかに強い興味を感じてしまったのだった。

水彩でこそちょっと珍しいケースってことになるみたいだけど、油彩の人は、一般にパレットを洗わない。
僕もそのことは耳学問で知っていて、そういうものなんだと単純に思ってきたけど、でも実はそうやって描いた絵の歴史とともに変化していくパレットというものは、画家の画風の中である一部を確実に担っているはずなんだなと思って。


青の時代のピカソは、どんなパレットを片手に絵筆を振り回してたんだろう。とか。ド素人の空想力にまかせて、あれこれ想像してしまいました。
画風の劇的な変化とともに、ピカソの左手のパレットの色彩分布(?)はどんなふうに変化をしていったのか、ピカソみたいな連中にもそれまでつちかった画風を捨てて、「パレットを洗う」ときがあったんだろうか。とか。
絵の技巧的な部分ではなくて、そういう人間的な部分にすごく惹かれてしまった。

深化していく画風と、画家たちの混沌のパレット。
何かそこには深沈とした、ある意味人文的なテーマがあるのだなあと。そう感じたわけです。
00:00 | 雑談・座談 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Fri.

ブラック・ジャック映画化妄想

手塚治虫作の“ブラック・ジャック”は、僕が最も映画化したい作品のひとつだ。それも実写版で。
これまでも、アニメ映画なら2,3あったようだけど見た範囲では原作無視の駄作ぞろいだったし、実写版ではTVドラマを見たことがあるが、これも2分くらいしか持たなかった。
どれもこれも、失笑するにも値しない出来ばえだった。それらの作品に携わった人たちとはたぶん、僕がブラック・ジャック俳優に望みたい条件からして違っているんじゃないかと思う。


まず、BJ俳優はある程度、美男でなければならない。これは誰しも共通して挙げたくなる条件だろうが、ただし正統派ど真ん中の美男ではちょっと困る。
眉や顎などの線がやや強すぎる、少し「濃い」感じの、やや精力過剰な印象さえ受ける顔。しかし粗野でも快活でもなく、むしろ陰性の顔。年齢は、30を越えたくらいがベストだろう。
体格は、中肉中背よりやや痩せているくらいが理想的。ひょろひょろでは困るし、小柄も大柄もちょっとやそっとならいいけど極端は困る。
役の作り込みや演技力はもとより、これらの要素を外面的な資質として兼ね備えていてほしい。
俳優という人種に疎いせいもあるが、僕がBJにふさわしいと思えるような俳優は今のところいないような気がしている。

と、こう並べてくれば、BJファンの中には「けっこう普通じゃん」と言いたくなる人もいるかもしれない。
実際その通りで、このあたりまでは共感してくれる人が少なからずいるということは僕にもわかっている。
問題はたぶん、ここから先だ。


BJ俳優には多かれ少なかれメーキャップが必要だということはファンなら誰しも知っているだろうが、僕はそこで一つ“僕の”BJ像を確立したいと思っている。
彼は小学校時代に悲惨な爆発事故にあって、ぼろきれのような状態から手術に手術を重ねて蘇生した。その後、さらに過酷なリハビリとトレーニングの末に奇跡的に健常者(それも強健な)になった、というルーツを持っている。
これを、緻密なまでに反映させたメーキャップを施したい。
原作中でも、BJはたびたび通りすがりの人々にコソコソと「気持ち悪い」「不気味」「フランケンシュタインみたい」……などなどの陰口を叩かれている。
ただその一方で、彼にはなかなか女にもてるという一面もあって、ドラマなどでは結局、顔にあざのある美男、という程度でお茶を濁しているのが常だ。
これを根本的にくつがえす。

ぱっと見た印象は、陰惨なまでに事故の傷跡が残る、まさに奇形的な姿に変えてしまう。
なにもことさらに大げさにしようというわけではない。ただメーキャップをしたまま街を歩けば周囲の人込みに空間ができ、ヒソヒソとささやき交わす声がするくらいまでは持っていく。
その姿で歩くBJは、ただし常に悠然として悪びれず、胸を張って、落ち着き払った足どりでいてくれなければならない。
かくして、せっかくの美形俳優起用も空しく、BJは原作どおりの奇形的存在としてスクリーンに登場することになる。ミーハーなファンたちからブーイングが起きるくらい衝撃的に、そのままお化け屋敷に紛れ込めるくらいまで作り込みたい。


それなら美形俳優なんかいらないか、というとそうではない。
BJは原作でもたびたび、人に横顔や背中を見せて言葉を交わす。たとえば、患者の容態を心配する付き添いの女と話すときに、彼女には半ば背を向け、窓ごしに庭を眺めながら話す、などのシーンがよく出てくる。
そういうふとした瞬間に、はっと息を呑むような美しさ──顔のラインでも曖昧なシルエットでも、あるいは薄暗がりの中で毅然と光る眼でもいい──を添えてみたい。
この奇形の天才外科医は本当なら、相当な美男だったかもしれない。事故に遭う前は、かわいい小学生だったのかもしれない、と、胸を突かれるようなインパクトを与えられれば本望だ。

ただいうまでもないことだけど、それはお決まりのお涙頂戴の悲劇性を演出するためではないし、ミーハーなファンに迎合するための工夫でもない。
BJは、最近あまりにも注目されすぎたためか、恐ろしく広い人気を勝ち得てしまっている。それをいったん壊すくらいのつもりでやる。スクリーンに現れた彼を見た瞬間に、潔癖な人なら嫌悪を感じるくらいの奇形性。
悪役に見えてしまっても一向に構わない。これでもあなたはBJが好きですか、と問いかけたい。
たとえば元ハンセン病患者たちの顔を見て、目をそむけずにいられない人にはBJを語ってほしくはないし、そういうBJでなければ彼の貫く人間としての尊厳の意味は消えてしまう。


そこまで徹底して創りこんで、しかしなおかつ、その風貌をメインテーマにはしない。
彼はその風貌を抱えたまま、たいていは淡々と、時には毅然として、自分に割り当てられた宿命を生きている。
僕は常々、ブラック・ジャックを孤独や哀愁だけで捉えようとするのは間違いだと主張してきた。あれはあれなりに、ひとつの幸せの形を描いた物語だと僕は今も確信しているし、はっきりいえば、ブラック・ジャックをどこにでもいる月並みな悲劇のヒーローの一典型に貶めたくはない。

僕の描くブラック・ジャックには、もっともっと誇り高い存在であってほしい。
00:00 | 雑談・座談 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
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