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Mon.

パレットを偲ぶ・・・

4月24日(土)

例によって治療に行った。
朝、鏡を見ながら、自分じゃ落ち着いてるつもりなのに顔色が白いことに気づく。
ああショックを受けてるんだなあと思った。
行きの電車の中では、珍しくポータブルMDを使わずに、ただパレットのことを思って過ごした。
センチメンタルだとは思うけど、これも僕の一面で、どうしようもないことだ。
精一杯生きてるものがある日、何の前ぶれもなく命を奪われて、僕の人生から退場してしまうことの意味などを考えていた。

帰ったときには日が暮れかかっていたけど、すぐに庭に穴を掘って、母と協力してパレットを埋めた。
母が墓標代わりの割れたコンクリートブロックと、花を挿すための小さな古いガラス瓶を見つけてきてくれた。
パレットを埋める前、育ての親猫のリケルメが、パレットの入っている段ボール箱の上にずっと座っていた。
何を考えていたのかは知らないけど、ほかの猫たちがパレットと血の匂いを嗅いでか落ち着かない中で、1匹だけじっと動かなかった。


育ての親猫って、ちょっと珍しいかもしれない。猫の世界では。
パレットの実の親は、ダビンチという三毛猫で、最近見かけないけど、たぶんまだ死んではいないと思う。
ダビンチはリケルメと姉妹で、リケルメよりずっと賢くて、パレットたち4兄弟を生んだ後も、もちろんちゃんと子育てをしていた。
リケルメはリケルメで、同時期に2匹のあまり賢くない子猫を生んで、それを一生懸命に育てていた。
ところがある日の夜、この2匹の親猫はそろいもそろって忽然と姿を消した。
その夜は、ひどく猫の騒ぐ声がしていたから、ひょっとしたらその声はこの母猫2匹のものだったのかもしれない。

夕方になって、放ったらかしになっている6匹の子猫たちのことを心配しているところに、リケルメがふらふらになって帰ってきた。
ひどくやつれていて、足取りさえ覚束なく、右の耳が根本から切断されていた。
あまりのひどい姿に、僕はいつになくたくさんの食べ物を与えて、ずっと撫でさすっていた。
決してなついてはいなかったリケルメは、動く気力もないのかじっとされるがままで、子猫たちが寄ってきても身動き一つしなかった。
右の耳の切断は、後で知ったところでは、近くの住宅地でのノラネコ避妊手術計画での目印だったらしい。

しばらくすると、ようやくリケルメはふらふらと立ち上がって、自分の2匹の子供たちに授乳し始めた。
ビンチの方は帰ってくる気配もなく、その4匹の子供たちはリケルメのほうに近づいては追い払われたりしていた。
でもそのうち、1匹の子猫がリケルメの子供たちに混じって乳房に吸い付いた。
続いて、もう1匹、もう1匹。
リケルメはやがて、ビンチの子供たちを拒むことをやめた。
数時間にわたって、飢えきった子猫たち6匹を、傷が痛むのかときどき悲鳴を上げながら抱いていた。

すっかり夜になった頃(だったと思う)、もうダメかと思っていたダビンチが帰ってきた。
同じように右の耳は切断されていたけど、リケルメほど憔悴しきった感じではなかった。
子供たちのところにやって来て、やがて寝そべって面倒をみ始めた。
そうして、2家族の猫たちはようやく元のように子育てをすることができるようになった。
でもそれ以来、猫たちの様子は少し変わった。
ずっとビンチはビンチの子猫たちを、リケはリケの子猫たちを育てていたのが、2匹の親が互いの子供たちをまったく選り好みしなくなった。
片方の親がいないと、残された親は6匹の子猫たちをずらりとお腹の前に並べて、それでも一生懸命首を伸ばして毛づくろいをしてやったりしていた。
かとおもえば、2匹の母猫がお腹を向け合って寝ている輪の中に、6匹の子猫がくんずほぐれつ乳房を奪い合っていたり。
ああいう風景は、ノラネコたちとの関わり合いの中でも初めて見るものだった。
そういうふうにして、リケルメはパレットの育ての親になった。


パレットの埋葬が済んでしまうと、もうそれ以上感傷に浸っていてもしょうがなかった。
ちょうど女子サッカーのオリンピック出場をかけた北朝鮮戦が始まる時間(午後7時過ぎ)だったので、テレビをつけて、2時間ばかり咆えていた。
結果は、驚くべきことに3-0の大勝利。
それ以前の試合でわかっていたことだけど、今回の女子サッカー代表は本当に素晴らしいチームだ。
個人的には、FWの丸山が熱烈に好き。
女子サッカーに続いては、男子五輪代表のギリシャ選抜との練習試合があったけど、少し見てみて退屈だったからやめにした。
急に疲れが増してきて、部屋に戻って横になった。
まだ11時ごろだったけど、隣の部屋から聴こえてくる弟のギターの音をうるさいとさえ思わず、すとんと眠りに落ちた。



※※※※※

その後、昨日はゆっくりテレビを見たりして過ごして、今日になったわけだけど。
少しずつ痛手から立ち直りながら、ここ2,3週間続けているオアシスのギター練習などをやっていました。
パレットを悼みながら曲でも作れたら、なんて死後すぐには現金なことも考えてみてたけど、実際はそんなふうにはいかないものだった。
なんとなく、そういうクリエイティブな気力が出てくるにはまだしばらくかかりそうで、だったらせっかく始めたオアシスのギター練を進めておく方がずっと有意義だと思い直した。
とりあえず今は、1曲目の“Supersonic”と2曲目の“LiveForever”を終えて、“Rock'nRollStar”に取り掛かっているところ。
これまでになく、ギタリストらしくなってきたような気がしてます。
だからきっと、この努力は何かにはつながっていくと思う。


事故のとき、パレットはうちの前の道路を、車庫に向かって渡って来ようとしていたらしい。
母と弟の乗った車はその道を、家から見て左手の方から走ってきて、車庫に入るためにいったん左折し、家と反対側の道に入って車庫に入るタイミングをうかがっていた。
その間、家の前の通りを数台の車が往来していた。
そういう中を、パレットは道路を渡ってこようとしていた。
いつも母や僕が帰ってくると出迎えてくれる猫だったから、その日もひょっとしたら、家の車を見て、車が車庫に入る前に先に庭に入ろうとして急いだのかもしれない。
母にそのことをいうと、母も内心それを考えていたらしくて、それを思うとやりきれない、と言った。

パレットというノラネコは、ノラネコだったけどやっぱり、うちの猫だったんだと思う。
大して食べ物をくれるわけでもない僕や母にひどく懐いて、窓の開く音でもすればすぐさま飛び出してくるような猫だった。
夕方、雨戸を閉めるとき、その不在の大きさを思い知るような気持ちがする。
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Fri.

パレット死去

1時間あまり前、母が弟を車で迎えに行って、ちょうど車庫に入ろうとしているときに、うちの前の通りでパレットというノラネコが別の車に撥ねられた。
母はその瞬間は見なかったけど、弟が見たらしい。
一瞬、車はパレットの上を通り過ぎ、パレットは難を逃れたように見えた。
そのまま車庫の奥にある家に上る階段を上り、門柱の手前の段まで逃れてきたところで、横倒しになって息絶えていた。
外傷はないように見えたけど、母と一緒に布にくるんでダンボールに入れるとき、少し口から出血していた。
表情は、そんなに歪んではいなくて、穏やかといえば穏やかだった。
きっと何が起こったともわからないまま、必死で庭に逃げ込もうとしていたんだろうと思う。
時刻は、ちょうど日付が24日に変わるころだった。
生きることに真摯に、何にでも興味を示して、いつも面白いものはないかと探しているような猫だった。
ほかのどの猫よりも人懐こくて、生きていることが楽しくて仕方ないように見えた猫。
幸せに生きていてくれなきゃいけない猫だった。
その猫が今日、1歳にもならずに死んだ。
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Thu.

愚痴・映画2篇

数日前に古典ホラー映画“悪魔のいけにえ”、今日は“何がジェーンに起こったか?”。
両方ともツタヤの土日半額で借りてきて見た。
残念なことに、どっちも一向にピンと来なかった。
どうも映画って表現は僕とは相性が悪いらしい。
僕があまりにも数奇な生活を歩んできたために、根本的に視点がずれちゃってるというのが1つ。
もう1つには、数奇な生活を歩んでくる中で、僕がいろいろと思いがけないところに傷を持っているために、万人受けするような価値観が引き裂かれるように痛かったりするから。

実のところ、映画そのものには感動していても、痛みの方が勝ってしまうことさえある。
僕がいいと思った映画の一つにスタジオジブリの“耳を澄ませば”ってやつがあるんだけど。
3,4年前の12月にそれを見て僕は感動して、同時に深く深くダメージを負って、丸々2ヶ月くらい何も手につかなくなるほどに落ち込んだ。
それ以来、ごく普通の意味での「いい映画」ってものにはそれまで以上に警戒心を持つようになっている。

どんなにいい映画を見たところで、僕は僕という人間が一向に救われないことに気づいている。
どうも、僕には映画ってものはダメなようだ。
いい映画に出会って深い部分で救われることなんて、今やカケラほども期待していないし。
ホラーならホラーで、身も蓋もないほど無意味なものが良くて、“悪魔のいけにえ”にはそれを期待してみたけど、そもそも怖さが身に迫ってこなかった。

だいたい、あんな恐怖なら怖くないんだよ。本当は。
あんな極端なもの、奇形の存在、社会の例外的脅威、なんてものは社会そのものの中じゃ悲しいくらいに無力だ。
ああいうものを奇形として恐れ憎み、その恐れを当然のように予定調和的に共有し合う、無感覚な個人個人の集合体としての社会。
本当の恐怖とか暴力っていうのはそっちの方だと僕は思う。

人間の皮をかぶった怪物のような悪役たちを前に悲鳴を上げるヒロインを見ながら、僕は作品をほどほどに楽しんで、でもずっと根本的に醒め切っていた。
まあ一つには、風土的なものもあるのかな。
環境があまりにもアメリカ然としていて、“リング”みたいな身近さは感じなかったし。
そして、こうして書けば書くほどに文章がとっ散らかっていくのは、僕の感受性がまったく働いてなかった証なんだろうと思う。

やっぱり、いいや。もう。
映画なんてものは。
あれはやっぱり、ごくごく大衆向けの娯楽であって、大衆の営みである社会ってもののスタンダードを肉体的・精神的に、また生活上も逸脱した人間にとっては入り込みようもないものなんじゃないかな。
一向に、個人の気配を感じることができない。
なんとなく、僕も本当はああいうものを受容できなきゃいけないのかなあと思ってウンザリしていくばかりだ。

これからもちょっとずつ見てみるつもりだけど、ここ数年、見るたびに映画という文化への気持ちは冷え込んでいく。
いってみれば、例外なき共感の芸術なんだな。あれは。
感じ方をあらかじめ限定されていることの手狭さが、共感できない身にとってはただただ腹立たしい。
映画というものが本当に嫌いになってしまいそうで、今日はちょっと嫌になっている。
00:00 | 病的独白 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Mon.

散髪に行く

ノコノコと散髪に。
1500円でやってくれる分刻みの店にいつも行ってるんだけど、前回の担当がハズレだったのでちょっと警戒気味でした。
前回の人は、たとえば切る長さとかを指定するときに、いわば「散髪用語」で言ってやらなきゃわからない。
しかもそれが問題だとは全然思ってなくて、完璧にこっちがわかるように言えないのが悪いっていう態度。(笑)
そういう人の常で、美的なセンスももちろん乏しく。
あれには本当に参った。

今日はその点、すごくよくできた人だったからよかった。
同じ1500円でこの格差はヤバいだろってくらい、人格もサービスも腕も美的センスも別次元でした。
客が少なかったからか(その時間帯は僕だけだったかも)、タイムリミットを告げるタイマーが鳴ってからもじっくりと時間をかけて仕上げてくれた。
じっさい、たった20分にも満たない時間の間に、心まで少し温かくなれたし。
同じ人間が同じ仕事をしてるのに、与える印象はここまで違ってしまうんだなあと。
指名ができるなら名前を訊いとくところだけど、そんなシャレたシステムはないので、たぶん顔も何も忘れてしまうことでしょう。
でもそれでも、僕に与えた印象は小さくはなかったし、そういうことは無意味ではないと僕は思っている。

それにしても今日の人はよかった。
おかげで帰ってきてからも、いつもならグタっとするのに、多少レコーディングに取り組んだりできたくらい。
人間のよさっていうものはこうも重要なもの。
僕のような似非世捨て人にとってさえ。
やっぱり人間はちゃんと生きてなきゃいけないと思うし、僕自身もそうありたいと思う。
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Sat.

3人に思う

イラクの人質問題に思う。

彼ら3人をバカと言い、自業自得と言い、自己責任の原則を得々と語る、かなり大勢のわけ知り顔の日本人たちへ。
確かに、彼ら3人はバカで無自覚だったかもしれない。
でも、彼らがイラクでバカをやっている間、あなた方は何をしていたのか?
イラクの戦火を対岸の火事として眺めながら、当座は安全な島国日本にぬくぬくと丸まっていただけではないのか。
改めて訊きたい。
あなた方はこれまで、イラク問題をどう認識し、そのためにどう行動してきたのか?
経済生活が忙しくてそれどころではなかったというなら、彼らだって皆が皆、特別に裕福な階層とも思われないから、どうかそれ以外でお答え願いたい。

彼ら3人は、バカでも何かをやろうとした。
それは、ただ単に普通に無感覚に、生きて老いて死んでいくだけの、その他大勢の日本中産階級(要するにあなた方だ)が絶対に選ばない行き方だ。
僕はあなたがたわけ知り顔の凡庸なサラリーマンどものご託宣よりは、彼ら3人の無謀な愚行を愛する。
彼らの動機が救いようもない理想主義だろうと、ドロドロの売名主義だろうと、安っぽいヒロイズムだろうと、そんなことはどうでもいい。
バカなヤツらだが、その勇気やよし。ということがある。
そのことがわからないまま、政治的な妥当性だけを述べ立てている三文弁士どもなど、しょせん生きていること自体が酸素と資源の無駄使いだ。

念のためにいうけど、僕は今この問題への対処そのものを云々しているわけではない。
個々の結論が「撤兵はありえない」になるのは別に構わない。
でも、彼らの向こうっ気の強さや、何かをやってのけようとした行動力に、敬意を払った上での議論ができないやつはゴミ以下だ。
何もなしえないまま平凡を是認して、さして役に立つとも思えないマヌケ面を世間に晒しているだけのやつらに好き放題言われて、彼らは実に気の毒だと思う。
できることなら、助かってほしい。
どういう形でならそれが実現できるのか、今となっては想像もつかないけど。
冒険的な人生を選んだ彼らの幸運を祈りたい。
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