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Tue.

若手ゴルファー2人を語る

ゴルフってスポーツには興味のカケラもないんだけど、選手たちの人間性の面白さや勝負師としての深み、っていった部分にはとうぜん興味は持ってます。
その意味で、失礼ながら個人的にはあまり関心のなかった女子ゴルフ選手たちの中に、最近になって出てきた2人の新人にはけっこう好感を持ってます。
宮里藍と、横峯さくら。

特に特筆すべきは、やっぱり宮里。
デビューイヤーに賞金総額一億円をクリアした怪物ぶりも、ゴルフ音痴の僕としてはそれだけじゃピンと来ないのですが、彼女の面魂や、プレーと語る言葉との統一感、っていったものを加味して考えてみたとき、そこにすごい将来性を感じてしまうのです。
いかにも骨太で精悍なルックスと、ルックスそのままのハキハキしたしゃべり方は、あれは伊達じゃないですね。
ギリギリの勝負の場になっても、あの人はあのイメージを決して裏切らずに勝負に挑んでいける人だと思う。
本物の勝負師になるだろうし、将来は国際的なトッププレーヤーになっても少しもおかしくないと見ました。

今現在のインパクトでは宮里には及ばないものの、やっぱり捨てたもんじゃない、と最近見直していたのが横峯さくら。
昨日、ぐうぜん育ての親にしてキャディーをも務める父親と一緒にテレビに出ていたのを見たけど、精神的にはまったくといっていいほど父親依存の影はなかった。
ちゃんと自立して、宮里のことも先行したライバルとしてアグレッシブに意識して、今に見てろよと本気で闘争心を燃やしてることが、笑顔の絶えないインタビューの中にもよくわかった。
この人は多分、宮里のような生まれながらの怪物性を持った人じゃない。
でも幸いにして、同世代にライバルと言い切れるほどの怪物的プレーヤーを持つことができた。
この人は、決して宮里の陰に甘んじる人じゃない。きっと伸びてくる。
そう直感しましたね。

向こう10年ばかり、この2人の国際的な(まずは日本だろうけど、そこにとどまってるうちはあまり興味がない)活躍には大いに期待してよさそうです。
この予言は、信じてくれていいです。(キッパリ
だって、そんじょそこらのゴルフ屋さんの批評じゃない。
ゴルフ音痴の僕が彼女たちの人間性を見ていってるんだから、そうそう間違いっこないのです。(?
あの2人は、紛れもない本物。
宮里藍は99%保障付きだし、横峯さくらも8割方は大丈夫。
見上げるほど大きなアスリートになって、日本人を楽しませてくれることになりそうです。
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00:14 | スポーツ | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

血液型番組の性格決め付け問題

今日の新聞より、「血液型番組:『性格決めつけ』視聴者から抗議相次ぐ」
最近流行の血液型による性格差を扱うTV番組が、いじめの原因になるなどして問題化している、という内容です。
血液型による性格差なんてものは、統計上はほんのわずかな根拠しかないのに、テレビ番組が決め付けるものだから。と。
これは一見、もっともな意見のようにも見えます。
でも血液型を扱う番組は、僕も何度か見かけてるけど、笑って見てる分にはけっこう面白いことが多いんですよね。
ほんのちょっとの科学的要素も、心地よいスパイスになって効いてるし。

個人的には、血液型による性格差というのは経験上、統計上のデータよりも多少ははっきりと実在しているものなんじゃないかと思っています。
それを多少膨らませて、エンターテイメントにして騒ごう、っていうのは大して悪い趣向じゃないと思う。
確かに最近のテレビは、たまに悪乗りが過ぎると思うこともあるけど、この問題の本質はそもそもテレビの側にはないんじゃないかと。
むしろ、それをバカ正直に真に受けて、ちっぽけなレッテルを鵜呑みにして、いじめに走ってしまう子供たちをはじめ視聴者側の問題じゃないのか。
そしてもちろん、そういう卑小な精神を子供たちに身に付けさせてしまった親たちの問題、という面の方が大きいんじゃないかと。
そう思いました。


血液型による性格差の扱いは、いくら大げさといったって、「B型は気まぐれで飽きっぽい」とか「AB型は二面性があって、ときに二重人格のよう」って程度のものです。
それは、血液型って部分を抜きにして考えれば、個人個人に当然あるはずの個性の範囲、じゃないのか。
しかも、むしろ魅力的な個性です。僕にいわせれば。
平々凡々たるA型ど真ん中そのまんま、なんて性格の悲惨なまでの没個性ぶりに比べれば、いかにそうした性格がピカソやカフカや手塚治虫のような天才性の香りに満ちていることか。
まあ、彼らの血液型を僕は知ってるわけじゃありませんけど。

僕はB型で、B型を誇っています。
同時に、B型の属性とされている「気まぐれ」「飽きっぽい」といった要素をも誇っているし、それらを敬遠する人たちを、腹の中じゃバカにして、相手にもしてません。
人間の面白さがわからないやつらめ、ってことでね。
B型に限らず、AB型やO型の個性も、当然のように僕は「面白さ」だと思っている。
そのへんの人間観に少しでもゆとりがあるのなら、「B型はこれこれ」「AB型は~」と聞いていじめに走る、なんてバカなことは起きるはずもないわけです。


問題は血液型うんぬんじゃなく、もっと根本にある。
本当に問題なのは、「気まぐれ」「飽きっぽい」「落ち着きがない」「八方美人」「二重人格」などなどといった性格を、悪として疎外しようとする価値観そのもの、じゃないでしょうか。
そして、そんな価値観が子供にまでも当然のように広がっているという事実。
または、今回の件を安易に「血液型=性格」論に帰してしまって、額に青筋立てて怒ってる「被害児童の保護者」たちだって、「うちの子はB型だが、人より飽きっぽいなんてことはない、だからいじめられるいわれはない」なんて正気で考えているのだとすれば、実に下らない。
苦笑ひとつして笑い飛ばすだけの余裕と、内心のプライドや反骨心、さえあれば、そんなことが大きな問題になるはずはないのです。
そんな番組、笑って見られない方がどうかしてる。

もちろん、そうやって笑って見ていながらも、現実として被害者になってしまっていて、それで困惑している子供や保護者だっているだろうとは思います。
ただ彼らは、困惑しつつも今回の騒動の主導者にはなっていないだろうと僕は思う。
批判されるべきは、いじめに走る低劣な子供たちとその保護者たちであって、テレビ番組じゃないとわかっているから。
番組がきっかけになったからといって、恨みつらみをぜんぶテレビ局に持ち込もうなんてのはお門違いってものでしょう。
問題の本質はぜんぜん別のところにあって、しかも僕の見るところ、はるかに根深い。
そこに目をつぶって、万事テレビ番組のせいにして、義憤に駆られてる一部視聴者の姿が、ひどく滑稽に見えるのです。
02:35 | 時事・社会 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Tue.

フラッグの思い出

今から4年前の、ほぼこの時間。
僕の愛犬「フラッグ」がこの世を去りました。
短足でガニ股で頭でっかちの、ちょっとバランスのおかしな、でもれっきとした純血種のアメリカン・ビーグル。
不思議なくらい愛嬌のある犬だった。
特に晩年、病気が多くなるに従って僕との間も打ち解けて、とにかく表情豊かな、スヌーピーの実写版みたいな犬になっていた。

薄れつつある記憶に従うなら、11月22日の日中に、彼は完全な下半身不随に陥った。
その数日前から排便がなくなっていたから、後から思えばあれはたまった便による神経の圧迫だったかもしれない。
これはひそかな後悔の種で、僕が敏感に察して浣腸器を買ってくるなりしていれば彼はまだ生きられたんじゃないかという。
でも、当時の僕は愚かにも、そういう可能性には思い至らずに、より身近で看病しようと玄関にスペースを確保して彼を運び込んだだけだった。

しかも、そのたかだか10メートルの搬送が彼にはかなり骨だったらしくて、様子は明らかに悪くなった。
ただそれでも、僕は彼が急に死ぬというような気はしなくて、ひょっとしたら下半身不随のまま、意外にあと何年も腐れ縁のように生き続けるのではないかという気がしていた。
「いかにも病人って感じになっちゃった」と母に言ったのを憶えている。


そうして、深夜3時10分ごろ。
僕は当時愛飲していたウィスキーのオンザロック片手に居間の共有パソの前に座り、ネット上をウロウロしていた。
突然、玄関から聞き慣れた、でもいつもよりも切迫した甲高い悲鳴が断続的に響いた。
そしてそれと同時に、ただならぬ息遣い。
僕は早足に、でも比較的落ち着いて駆けつけたように思う。
そして、彼が胃の中のものを少し吐きながら、横たわって苦しんでいるのを目の当たりにした。

慌ててかがみこみ、頬をなでたりしたものの、現実感はあまりなかった。
恥ずべきことだけど、酔っ払っていたから、だと思う。
これは「死」だ、という認識が芽生えなかった。
ただ、まさか、と思い、「冗談じゃないよフラッグ」、とだけつぶやいた。
激しい息遣いはたちまち乱れて弱まり、僕の犬は息を引き取った。
唇がひとしきり、呼吸の名残のようにして何度も何度も震えていた。
もう心臓は止まっているのに。
それを見て、もう1度生命を呼び戻したくて、強く身体をこすったりしたような気がしないでもない。

でももう、どうしようもないことだった。
ぼんやりとした頭のまま、これからどうしようかと考えながら、「よく生きた。よく生きたよ。お前には何の不満もないよ。よく生きてくれたよ。・・・」とつぶやいてみたら涙が滲んだ。
尻尾のあたりを見ると、硬い便が少量洩れていた。
死体をどうするかはまだ決めていなかったけど、便を見られることは死んだ犬が嫌がりそうな気がしたので、吐瀉物と共にスコップですくって、たしか庭に埋めた。
家族にもそのことについては何も言わなかった。


それから、物置からダンボールの箱を取ってきて(玄関での寝床代わりだった箱をそのまま流用したような気もする)、犬の身体を抱きかかえて箱の底に静かに横たえた。
フタをして、その上に鉄アレイで重石をし、青いマジックインキで「3時過ぎ、容態急変。死去」というようなことを家族のために書いた。
それからパソの前に戻って、当時の行きつけの持病に関する掲示板に犬の死について書き込んだりしてから寝た。
寝る前に、ずっと何も書いていなかった日記用ノートに長々とフラッグへのメッセージみたいなものを書いた。
書いていて涙がこぼれた。

僕は彼の生きている間じゅう、ずっと持病やら何やらで苦痛の中にいて、でもいつかここから抜け出すんだと念じていて、そして抜け出した後の僕の時間を、彼にも共有してほしいと願っていた。
だから僕が人間らしい余裕を取り戻す前に、彼の死という断絶のときを迎えてしまったことが悲しく、悔しくてしょうがなかった。
それでも、彼は年齢的にはもうおかしくはない歳になっていたから、諦めと、それに何より、感謝の気持ちも大きかった。
常に明るくて、「生きる」ということを決して疑わない、誰よりも僕に身近だった犬に恥ずかしくないような生き方をしていきたい、と強く思った。
そして、彼は果たして、僕と一緒に生きて幸せだっただろうか、と考え続けた。


翌日。
たしか昼過ぎに、母と相談して埋葬場所を決め、僕は彼のダンボールの棺を玄関から庭先に運び出した。
蓋を開けると、死体はまだきれいだった。
それでも毛並みが少しだけ黒ずんで陰気に見えたのは、空一面が白く曇っていたからかもしれない。

母が庭の黄色い花を摘んできて、死体の上に添えた。
それが妙に似合った。
「眠っているようだよ」、と母は言い、涙声になって目頭を押さえた。
彼が晩年、毎年夏になると、暑さに弱いので避難していた木の下の近くに、スコップで大きな穴を掘ってあった。
そこに彼の棺を運んで、棺ごと埋めた。
その上にコンクリートの板を置き、さらに埋めた。
余った土を盛っていくと、小山のように盛り上がった。
その後はもう、やれることもなかった。


いい墓ができた、と思うことで僕は少しだけ落ち着いた。
1月もしないうちに、ダンボールの棺が陥没したらしく、小山は崩れて平らになってしまったけど。
そしてそれが、僕がフラッグのためにした最後の作業になった。
あれからちょうど4年。
長いようで短いようで、肝心の僕はといえば、未だにあのときと同じ苦痛の中をフラフラしている。
せいいっぱい前向きに生きているつもりだけど、果たして彼は認めてくれるだろうか。
思い出すと、少しセンチメンタルになってしまう。

今も庭には、彼が生前暮らしていた6畳サイズの囲いと、その中の茶色い家とがそのままに残っている。
ときどき、今は開け放たれたままの囲いの中で、ノラ猫の子猫たちのじゃれ合う姿が見られる。
03:51 | 人生観 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

大山のぶ代のドラえもん降板

大ショック。
大山のぶ代が「ドラえもん」降板。
ほかのメインキャストも総入れ替えで世代交代するんだと。

許せなく思うのは、フジコFが死んでから(露骨にいえば、その晩年から)、ドラえもんの新作はとっくに精彩を欠いていたと思える点。
ドラえもんをドラえもんでなくしてまで、世代交代を図る時期だと思うのか?
はっきりいえば、新作のクオリティの低下には目をつぶるとしても、生き残りの方のフジコがいったいあと何年作品を書けると思う?
今のキャストのまま、ドラえもんの最後を飾らせてやることは決して不可能じゃない。
それなのになぜ。

かつて、あの名作「ガンダム劇場版」も、商品ラインナップがビデオのみだったのをDVDに移植するときに、何を勘違いしたのかバカなスタッフどもが、当時の声優を再集結させて、声をぜんぶ録り直して、それをウリにして売り出すという愚挙を敢えてした。
その結果、DVDは不評の底に沈んだ。
なんでこう、現場の人間どもというのはバカなのか。
頭が悪いというほかにいいようがない。
手塚治虫の遺産を、新作発表のたびに汚していく手塚プロのボンクラたちといい。

アニメには見る以外は縁もゆかりもない人間だけど、今回の人事は残念でならない。
ルパン3世の声が変わって、あまりのお粗末ぶりに新作長編がほとんど見られなくなってしまったときも残念だったけど。
今度のドラえもんは、そのときのさらに何倍にもショックは大きい。
ましてやルパンの声優と違って、大山のぶ代はカクシャクと生きているのに。
なんてバカさ加減だろう、お偉方ども。
みんな並べて帆げたに吊るしてやりたいよ。
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22:40 | 雑談・座談 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

「2001年宇宙の旅」を見る

6時ごろからウォーキングした後で、キューブリック「2001年宇宙の旅」。
大した予備知識もなく借りてきたんだけど、これも「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と同様、賛否が極端に別れる映画だったらしいね。
で、結論からいうと、僕は「眠くなった」組でした。
宇宙を舞台にしたとにかく壮大で哲学的な物語、ってことみたいだけど、あるのは映像的イメージだけだな、と。
1968年の作品ってことで、時代的な限界をはるかに超えた映像的洗練には驚くよりほかないけど、これに古典的名作としての価値を見出すのは、どっちかといえば哲学的なものに免疫のない人たち──たとえばSFオタクたち──なんじゃないだろうか。
見掛けほどの深いものは僕は感じなかったな。

1968年といえば、いま調べたところでは、手塚治虫の「火の鳥」の第一巻が出版された年。
どっちがどっちに影響を与えた、って可能性は確率的には低そうだけど、テーマには驚くほど共通する部分を感じます。
そしてキューブリックは純・映像的に、手塚治虫は映像的なものをも意識しながらもより純・哲学的に、この壮大なテーマを消化した。
ってことになるんだと思う。
そして、この間の「ジョン・マルコヴィッチの穴」のときにも同じようなことを書いたけど、この映画のテーマもまた、日本人にとっては得意分野だと思うんですよ。
それは、ごく乱暴にいえば「輪廻転生」の思想。
火の鳥では露骨にそれが下敷きになり、キューブリックの場合は基本的には欧米的な価値観に立脚しつつも、やっぱり同質のものを表現していると思う。
そして、手塚治虫の方がよりテーマそのものに対しては肉薄していると僕は感じる。

「2001年~」の終盤のイメージの連続を「難解」と称して尊んだり、その解釈に悩んだりする人たちは小さな間違いを犯しているように思う。
最初から映像的に解釈されているものに、「解」などありうるはずもない。
表現している当のキューブリックも、自分が何を表現しようとしているかなど把握してもいなければ、その必要性を感じてさえいなかっただろう。
むしろ純映像的なイメージを畳み掛けることで、そういう混沌とした混乱の中に視聴者を落とし込もうとしているわけで、彼らのように気持ちよく混乱してくれればキューブリックはしてやったりとほくそ笑むに違いない。
エンターテイメント映画としては、それだけで立派に成立しているわけだから。
それ以上にことさらに難解がって、その意味するところを考え抜いたりするなどは、はっきりいって無駄なことだろうと僕などは思う。

もし本気で難解なものに直面したければ、手塚治虫の「火の鳥」の方をお奨めします。
こちらなら、いくら考え抜いたところでそうそう無駄にはならないと思うし。
キューブリックについては、いずれ見てみるつもりの「機械じかけのオレンジ」に期待を託すことに。
22:12 | 映画批評 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Thu.

中島らも「アマ二タ・パンセリナ」を斬る

ここしばらく、中島らもの「アマ二タ・パンセリナ」を読んでるんだけど。
実に酷いものです。この作品は。

必ずしも最晩年の作品というわけじゃないだけに不思議だけど、「今夜、すべてのバーで」や「水に似た感情」に見られるような公平で率直な、冷徹な視点というものがまったく欠落してるように僕には思える。
ドラッグの品格を語り、シャブ(覚醒剤)は最悪で論外とか、対象の善悪問わず開かれていなければダメで、ドラッグ類も試した上で取捨選別するようでなくては人と猿でいえば猿のレベルだとか、・・・とにかく根拠薄弱な独断が目立つ。
体調の悪い時期だったのかもしれないけど、感覚的に強く思うのは、この人はだいぶ脳の萎縮が進んでいたんじゃないかということだ。

緻密な思考力がない。
それに気づくほどの繊細さもない。
あるいは、語っても仕方のないことは語らないという矜持の高さもまた、ない。
ほかの作品に共通してあった中島らものよさが、この作品ではきれいに消え失せている。
読んでいて退屈ではないのはさすがというべきだけど、哀れを催します。
この作品以降にも優れた作品は書いていたはずだし、そもそも僕のお気に入りの「今夜、すべてのバーで」とそんなに年代的にずれているわけでもないから、とにかくネジが狂っていたんだろうけど。

しかし見苦しい。
この作品は、中島らものキャリアの中での汚点だと思う。
16:07 | 書籍批評 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Fri.

人の死の伝え方

先日、元スーパーマンのクリストファー・リーブの死について日記に書こうとしたときのこと。
文章を書き出すなり、僕は過去にも何度となく胸中をよぎってきた葛藤とまたしても向き合うことになった。
リーブさんが──リーブさんだけに限った話ではないけど──「死んだ」と書くか、それとも「亡くなった」と書くべきなのか。
そこに少しだけためらいを覚えたのだ。
とはいえ、一瞬の躊躇の後、僕はすぐさま、ほとんど習慣的にこう書き出した。
「スーパーマン」クリストファー・リーブが心臓発作で死んだ。享年52歳。
そうして、僕はそのまま先に書き進みながら、でも果たしてこれでいいのか、となんとなく考えあぐねていた。

人の死を聞いて、それを誰かに伝えようとするとき、「死んだ」といわずに「亡くなった」というべきなのかどうか。
僕はいつも「死んだ」と簡潔に書いているけど、そのくせ毎度のようにひるむものをも感じてきている。
それが単に、社会的な慣習に逆らうことへのためらいなのか、それとももう少し別の種類のものなのかは未だによくわからない。
自分なりに、死は「死んだ」としか伝えようがない、という思いは歴然とあって、結局はいつもそれに従ってきてるんだけど。
なぜかといえば、つまり人は生きて死ぬものだから。
亡くなった、というだけで、その尊厳にカスミがかけられたような気がしてくるから。
彼は、生きて、死んだ。と認めてやらなければ、死んだ人が浮かばれないような気がしてきてしまうから。

「スーパーマン」クリストファー・リーブの、全身麻痺に陥って以降の懸命な生き様には、「亡くなった」なんて遠まわしな言い方は似合わない。
なぜ、と訊かれても困るけど、僕はなんとなくそう思う。
「亡くなった」という言葉には、ハレとケの「ケ」に似た響きがあるように思う。
亡くなった、といった瞬間に、彼はもう関係のない世界の住人だ、と決定づけて、それ以上彼について語る口を閉ざしてしまうような響きを僕は感じる。
そして、僕がいつか死んだとき、あいつは死んだよ、と言ってくれる人の存在を喜びたいと思う。
なぜなら、そういう人こそが、生前の僕の生の尊厳を認めていてくれた人だと思うから。

おかしいのかな。
そういう感覚は。
00:00 | 人生観 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Thu.

面白くない人お断り

あるコミュニティサイトの、とある人物の自己紹介で見かけた記述にこんなのがあった。
「面白くない人はお断り」。
ずいぶんな物のいいように見えるけど、彼には彼なりの言い分があるらしい。
なぜなら彼は、「何らかの面白い活動なりをしている人を歓迎したいし、そういう人との関わりをこそ育てていきたいから」。
という趣旨なんだそうな。


まあその趣旨自体は、僕にもよくわかる。
僕がHPを運営したり、コミュニティサイトなんていう似合いもしなければあまり馴染めもしないものに首を突っ込んでみたりしてるのも、ほぼ同じ目的のためといってよさそうだし。
ただ、どうにも引っかかってしまったのは、まさに彼がその考え方を堂々と書いてしまっている点だった。
まずは反射的に、何か足りないんじゃないか?この人、と思った。
でもその反応が、ひょっとしたら僕が無意識に抱いてしまっている常識的な、いわば慣習的な抵抗感に過ぎなくて、彼のやり方はそれはそれで成立しているのかもしれない、とも思えて。
ひどく違和感を感じながらも、その違和感の正体は何なのか、ひとしきり考え込んでしまった。

まず、その記述ひとつで、僕は彼のものの考え方を以下のように分析した。
①彼は、自分自身を「面白い人」であると判断している。
②同時に、彼は自分自身に、他人の面白い面白くないを判断する「ものさし」が備わっているものと判断している。
③「ものさし」を持っていると自負する根拠は、彼が自分を「面白い人」だと信じる、まさにその信念にあると思われるので、彼は「面白い人」は「ものさしを持つ」、ないし「持ちうる」、という認識に立っていると考えられる。
④ということはつまり、彼は人間というもの一般を、「面白くて」「ものさしを持っている人」と、「面白くなくて」「ものさしを持っていない人」のおよそ2階層に大別して捉えていると考えてよさそうだ。
⑤つまり彼は、根本的にそうした「ものさし」の尺度が、面白さを解する者同士の間においてはある程度共通であることを信じている。

この分析、どこか間違っているかな。


とはいえ僕自身の考え方も、実のところ彼と大差はない。
僕もまた、
①自分に面白さを認めているし、
②他人の面白い面白くないを判別できるつもりだし、
③世間の人間の中にはそうした尺度自体を持つ者持たない者がいるとも感じている。
ただ違うのは、尺度を持つ人であれ持たない人であれ、ある特定の他人が僕のことを「絶対に面白いと認めるはず」という前提など僕は持っていない、という点だ。
「ものさし」は共通じゃなく、千差万別だ。
僕にとって面白くない誰かが、予想もつかない優れた一面を見せることもあれば、そのことが僕にとってどんなに意外でも、僕以外の誰かにとってはとうにお見通しだったりすることも現実にある。

実例としては僕の場合、お笑いタレントなんかがいちばん多いのかもしれない。
デビュー当時のルー大柴なんかもう、・・・それが今や、ナイスミドルの一角だから。
それにもう少し最近だと、ネプチューンがあんなに垢抜けて成功していくなんて、僕は夢にも思っていなかった。
そんじょそこらの「原田ファン」の女の子たちの方が、彼らのよさには僕よりよっぽど鋭敏だったわけだ。
まあ、ぐうぜん大化けしただけなのかもしれないけど。


そしてそれらのことから類推するに(ってほど大げさなことでもないのだけど)、僕と人間的な相性の悪い誰かにとっては、僕という人間は面白くもなんともないだろう。
いやそれどころか、ほかの誰かにとっては気に障ってしょうがない存在でさえあるかもしれない。
そういうことはむしろ自然なことだ。
だから僕は万事、それを当然の前提として考えることにしている。
さらには、僕にとってこの上なく面白い人々が、僕のことをまったく評価してくれないかもしれない、という不幸な事態も当然の可能性として認めている。

そういう前提があれば、「面白くない人はお断り」などと声を大にしていうことなど、おかしくってできはしないんじゃないか、というのが結局のところ僕の感じた違和感なのだけど。
自分自身を面白い人間だと信じている手合いを見たとき、僕は内心、まず真っ先に「あんた本当に面白いの?」と問いかけたくなる。
逆にもし、僕自身が自分を面白い人間だと頭から決め込んでいれば、ほかの誰かが腹の中で「あんた本当に面白いの?」と訊ねるだろう。
せめて面と向かって訊いてくれるならいい。
でも実際は、肩をすくめて通り過ぎていってしまうかもしれない。
そうなってしまえば、それほど残念なことはない。

「面白くない人はお断り」。
考えれば考えるほど、どうもぞっとしないフレーズだ。
何が面白いやら面白くないやら、俺は知らんよ、とトボけていた方が、どれだけ実入りがいいかわからない。
00:00 | 人生観 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Mon.

夢うずら

奇跡の言葉。

ごく稀に、ネット上でふと見かけた言葉や人格が、何の予備知識もないまま強烈な印象を伴って頭に焼き付けられることがある。
最近では、この「夢うずら」というHNがそうだった。
なにしろ他人様のHNなのであまりおおっぴらに言い立てるべきではないんだろうけど、なんて素敵な言葉なんだろうと思ってしまって。
HNの主がある映画にまつわる掲示板で1回限り登場の女子高生(中学生?)か何かだったから、出典でもあるのかと思って検索してみたけど、その書き込みのほかには何も出てこなかった。

つまり、オリジナルなんだね。たぶん。
それも、その掲示板でのその投稿以外では使っていないか、ご当人がそもそもパソにあまり触れてないか。
映画というのは僕の鬼門ともいうべきアニメ映画「耳をすませば」だったので、物語の内容ともイメージ的に重なって、すごく印象的に響いてしまった。
映画に負けないほどの純粋さを宿した言葉だと思った。
書き込みの内容も、映画の舞台になった聖蹟桜ヶ丘に思い切って一人で行ってみたときの話で、純粋さの伝わってくるものだったからよけいに。

それを生み出した少女に、その言葉の背景など訊いてみたいと思ったけど、書き込みは1ヶ月くらい前のものだったし、言葉を検索したときに何も出てこなかったこともあってあきらめた。
それでも、言葉は残った。
というか残した。パソ辞書の単語登録で、「人名」扱いで。
映画に胸をえぐられる思いをしたように、僕はこの名前にも胸を衝かれたけど、印象はどちらも柔らかだった。
こういうものを失ってはいけない、と思わせる美しさを含んでいた。

ネット上には時々、こういう偶然がある。
何の縁もない人の残した言葉や、すでに放棄されてしまったHPの一節や。
すれ違いの切なさも手伝って、そういう言葉は宝物のように貴重なものへと変わる。
それはもう、手の届かない世界からの落とし物に過ぎないわけだけど。
どこかで誰か、「夢うずら」を見かけたらお知らせください。
15:30 | 人生観 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
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