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Tue.

自立考

自立、ってことが少しまた心にのしかかってきている。
僕は今年1年、いろんな人たちに依存してきたと思う。
これはネット上に限らずだけど、ネット上に限ってみたって実に大変な依存ぶり。
そして、この依存というやつは、「本来は自立していて、いつでも自立状態に戻れる」人がしていれば美しく、「依存せざるをえない」人がしていれば醜くなる、という傾向があると思う。
特に、「自立の余地があるのになんだかんだで依存せざるをえなくなっている人」がしていたりすれば最悪で、僕に好感を持てない人というのは大半、意識的にせよ無意識にせよ、僕に対してそういう認識を抱いているのじゃないかと思う。
僕自身も、そのへんが実は部分的にはあやふやで、「いつ?いつ動き出せる?いつ踏み切ればいい?いつまでに踏み切らないと醜くなる?まだ間に合うのか?一体いつまで?」という自問自答をのべつまくなし繰り広げている。
それが精神的な圧迫になって、たぶん言動からもゆとりを奪っていると思うのだけど。

最近、精一杯コントロールしていたつもりでもなお、ネット上で人を幻滅させていたという手痛い経験をして、どうやら急激にそのへんの意識が高まってきているらしい。
でも、だからといって自分らしいバランスを取り戻す手立てがつかめているわけではないから、少し混乱してしまっている。
たぶん、僕はずっとずっと何年もの昔から、卑屈になることが怖かった。
卑屈になったらおしまいだ、という意識はものすごく強かったし、僕の危険性はもっぱらそこにある、と信じ込んでいた。
だけど、実はそうじゃなかったのかもしれない。
卑屈になるまいとして、必死で胸を張り、背筋を伸ばして、逆に押し付けがましくなる危険だって当然あった、のかもしれない。
まあこのあたりは、まだ憶測の域を出ないけど。


そして、そういう危険性の根というのはひょっとしたら、事情がどうあれ僕が現に自立できていないという一点にあるのかも、とちょっと思ってしまったわけなのです。
極論だけど、誰が離れていっても自分は自分といいうるほどの余裕があるなら、誰も離れてなどいかないんじゃないだろうか。
もちろん性格的なものもあるにせよ、少なくとも僕の性格なら。
でも、余裕がなくて内面がジェットコースターのようなら、どうコントロールしたって自分を維持できない部分がどこかに顔を覗かせる。
そして、そういう「コントロールできない部分」まで含めた全体像がいわゆる人間性というものなので、それを見て幻滅する人だって出てくるだろうし、その幻滅を責めるわけにもいかない。
たとえば、それは本当の僕じゃない、なんていう言い訳は通用しない。
それでも、僕は僕なりに試行錯誤したり軌道修正したりしつつ、自分らしさを守って前向きに、一歩一歩やっていくしかないわけだけど。

トラブルが降りかかるまで、僕はすっかり安心していた部分があった。
少なくとも、この一点では、僕は成長できた、ここでは僕は安心していていいんだ、という甘えがあった、のかもしれない。
でもひょっとしたら、本当に安心できる日なんてものは、文字通りの意味での自立を果たすときまでやってこないものなのかも。
今はなんとなく、そういうふうに思っている。
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18:42 | 病的独白 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Thu.

遠ざかる宇宙と、孤独なる人類

宇宙の生成と発展、そして1人の人間の一生について。
もともとは花梨さんのブログ「星の方舟」所収のコラム「夜はなぜ黒い?」を読んでのコメントの予定が、衒学趣味が災いしてかむやみと長くなったので、トラックバックという形になりました。
まあ、この話題に関しては、トラックバック元の花梨さんの方が明らかに10倍くらいは詳しいので(笑)、僕がちょっとやそっと背伸びして語ってみたって、べつに嫌味には当たらないと思う。
宇宙の生成っていうのはつまり、例のビッグバンっていう大爆発で「無」から宇宙が生まれて、という話です。
誰でもどこかで小耳に挟んだことくらいはあるんじゃないかな。
そしてわれわれ人類は(宇宙人も)みんな、その原初の大爆発によって生じた衝撃波の内側に広がる「宇宙空間」に住んでいるわけだ。

爆発の衝撃波が猛スピードで拡散していく、その最前線がいわゆる「宇宙の果て」といわれるもの。
だから当然、今もなお、宇宙空間は際限もなく広がり続けているってことになる。
その、我々から刻一刻と遠ざかり続けている宇宙の果ての、さらに外側にあるものは、理論的には多少考えられているようだけど、ほとんど人間にとって認識不可能な未知の領域。
そして爆発と共に宇宙空間内に飛び散った無数のチリの1つ1つが、それぞれ恒星だったり惑星だったりして、それらは星雲や星団を形作って、今なお爆発の中心点から遠ざかるように宇宙空間の中を吹き飛び続けている。
なぜなら、宇宙は無重力で、それらを失速させる要因が何もない(※追記参照)から。
そうした吹き飛び続けるチリの集団の1つが銀河系で、その中の一片が太陽で、その周囲をぐるぐる回るいくつかの星々のうち、中心から三番目の惑星が地球。
その表面に巣食う60億の微生物が人類で、そのうちの1人が僕で、別の1人がこれを読んでいるあなただ。

こういう知識を仕入れたのはもうずいぶん昔のことだから、多少ズレたことも混じってるかもしれないけど。
途方もない話だなあとつくづく思います。
僕の場合は、これを直視すると、どんどん虚無感の方にいってしまうタイプなので、あまり意識はしないことにしているんだけど。
むしろ人間は、あくまでも人間の五感(ないし六感?)の範囲で生きていくもので、その価値に全幅の信頼を置いていていい。
それ以上のことはせいぜい、頭の片隅にしまっておけばいいんだ、と言い聞かせることにしてる。
だって、宇宙がどんなに広く、宇宙の果てがどんなに遠ざかり続けていようと、そして隣の星雲との距離がどんどん遠ざかり、銀河系が孤独に取り残されていこうとも、人間は人間の喜びを喜んで、悲しみを悲しんでいくわけだから。

宇宙の広さに、ロマンや夢を主に感じられるのであれば、それはむしろ素敵なことだと思う。
でも、あまりにも莫大すぎる宇宙というものの空間的・時間的な規模は、どうも僕には否応なく、微生物としての人類のことを思わせてしまうらしい。
そうじゃなく、人間は人間で素晴らしいものだ、と思うには、僕にはどうも、銀河系規模あたりが限界のようなのです。
銀河系からせいぜい、近隣のアンドロメダ星雲とか、その他いくつかの星雲あたりまでがかろうじてロマンの範囲で、それ以上だといわば、ほとんどホラーの領域になってしまう。(笑)
ただただ、怖いなあ、というのが率直な思いだったりします。
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04:11 | 雑談・座談 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Fri.

サッカー日本代表のドイツ戦

サッカー日本代表の強化試合、横浜での対ドイツ戦。
さっきまでテレビで見てました。

結果は0-3の大敗。
でも選手たちの動きには、特にはっきりした不満はないような。
ジーコの3人同時交代から先、なんとなく戦術が不明確になって、チームもバラバラになってしまったけど、それは選手たちの責任じゃないし。
むしろ、小笠原・福西といったあたりの動きはいつになく切れていた。
稲本は、試合勘が鈍ってるのか空回り気味だったけど、表情は明るく健康そうで、今後の見通しは悪くなさそう。
楢崎の1点目のファンブルや、大久保の3点目の事実上アシストも、腹は立つけどワンプレーだし、根本的な問題ではないと思う。

ただ、トルシエジャパンだったら、とはちょっと思う。(笑)
ジーコの能力は、サッカー不毛の地で布教に励む宣教師としてのそれであって、国際Aマッチの最前線で指揮を執る総司令官や策士のそれじゃない。
たしかに今日は、ディフェンスの中沢・宮本・坪井といった一線級を軒並み欠いて、急造ディフェンスラインで気の毒だった。
だけど、もう少しチームができていれば、それなりに対処の方法はあったはず。
メンバーが抜けたから守備力がガタ落ちだ、というのは、程度にもよるけど基本的には、チーム戦術がなく個々の力に依存していることの証明だ。

今日の試合に限っては、僕は「ジーコのせいで負けた」とまでは思っていない。
だけど監督としての存在感の薄さや説得力のなさというのは、これまでの「ジーコのせいで負けた」いくつかの試合と共通だったんじゃないだろうか。
来年に引きずることはない、とジーコは言う。
例によって、その言葉の根拠は僕には見えない。
大敗したからといって、ジーコの首が危なくなるなんてこともなさそうだし、むやみに言い募ってみたってしょうがないことではあるけど。
00:29 | スポーツ | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

デッドマン・ウォーキング

さっきまで映画「デッドマン・ウォーキング」を見てました。
予想をはるかに超えて、いい映画でした。
過去に見たアメリカ映画の中では1番だったかもしれない。
それも、アメリカ人お得意のドンパチやコメディ路線など微塵もなく、純然たるヒューマンドラマにして1番。
かといってもちろん、いたずらに暗澹と、誰も彼も額にタテジワ、みたいな安易なムード作りに走ってるわけでもなくて。
とにかく最初から最後まで、生身で生きてる人間たちのどこまでもリアルな物語でした。

主人公はぐうぜん死刑囚の男と交流をもつことになったシスターだけど、安易に信仰の予定調和に落着させようってわけでもなく。
本物の人間──生身の感情で真摯に生きている人たち──と、それを取り巻く、あるいはそれの集合体としての社会。
そして、そんな中に有無をいわせず芽生え、割り込んでくる不条理。
そういったものを痛烈に感じさせる作品でした。
似ているといえば、最近見た「ダンサー・イン・ザ・ダーク」はかなりの部分がこれの模倣作なんじゃないかってくらいのものだけど、主題への迫り方の迫力、誠実さ、リアルさ、すべてが天と地ほども違う。
この映画に関しては、あまりあちらこちらの感想や批評なんかは読まないで、予備知識なく見るのが一番いいんじゃないかと思います。
僕自身、彼の過去やら人間的な本質やら、いろんなことが主人公のシスターと同様に闇の中で、たくさんの謎を抱えたまま死刑囚の男と向き合うことができたから。

さて。
珍しく、今日はいいと思った映画について長々と書きました。
日ごろ長々と書く場合は、僕はたいてい悪口なんだけど、それは一つには「いい映画」には語る意味がないように思えるから。
これは語るものじゃない、見るものだ、と思えてしまうから。
なので、この文章はいったん日記に掲載して、それから必要なら加筆修正してブログに移すつもりだけど、僕が決して安易な悪口批評屋さんじゃないってことの証明になってくれればと思う。(笑)
僕が言葉を尽くしてお薦めしてしまうほど、本当にこれはいい映画なので、まだ見てないという人はぜひ。
死刑の是非を投げかける、なんてだけの浅薄な社会派映画じゃなく、こういうのこそが本当の人間の物語だと思うから。
22:30 | 映画批評 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Thu.

ベイスターズ佐々木の厚遇に思う

横浜ベイスターズの佐々木が去年と同じ6億5000万円+出来高の日本球界最高年俸で契約更新とか。
気が知れない。(ボソ
去年は散々チームに迷惑をかけたようだし、球速はマリナーズ時代の末期のまま、140kmに届くや届かずやで、来年も好転する材料は皆無。
さらにいえば、彼は過去の言動を見る限り、人格的にも節制などの意識が乏しく、若手の手本になれるような選手ではない。
それを放出どころか、最高年俸で現状維持って。

ベイスターズの上層部は何を考えてるんだろう。
そんなに金の有り余ってる超強力球団だった?ベイスターズって。
このへんにも、僕は日本球界の悪しき体質を感じてしまう。
だいたい、年俸が歳が行くほど上がっていく選手があまりにも多いのはなぜ?
来年の活躍の程度を見越して年俸は決められるべきなのに、年功序列に近いような変動を見せてるケースが多すぎるように僕には思える。
その象徴が、もはや過去の選手になりかけている佐々木に対する異常な厚遇だと思う。
そんな金があるのなら、球団下部組織の充実のための基金にでもして、メジャーリーグばりに自前の若手選手でも育ててみたらいい。
もしくは、メジャーを含む他球団の将来有望な若手選手を吟味して、5人ばかりまとめて獲るとか。
球団の強化っていうのは本来、そういうものじゃないのか?

メジャーであれJリーグであれ──Jリーグにはまだ年功序列の名残を多少は感じるけど──、こんなバカな人事はありえない。
来期の横浜の成績が思うようでなかった場合、特にその中での佐々木の貢献が不相応に低かった場合には、横浜上層部は総懺悔して総辞職するべきだと思う。
それがチーム作りを司る立場の最低限の責任というものだ。
でもそういう認識が、果たして上層部にあるのかな。
13:55 | スポーツ | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

K1ワールドグランプリを見る

K1ワールドグランプリを見た。
日本代表の武蔵は決勝でディフェンディング・チャンピオンのレミー・ボンヤスキーに再延長判定で敗れて、2年連続の準優勝。
結果だけ見れば、悪くはない。
さらにスタミナも尽き果てた延長・再延長での力闘ぶりをも加味すれば、むしろ万雷の拍手で賞賛してあげたいような結果に見えなくもない。
だけどそれでも、個人的には大きな不満も残す武蔵の戦いぶりだった。

第2ラウンドの終了間際、ボンヤスキーは初戦のホースト戦で受けた脚のダメージから、武蔵のローキックをやや極端に嫌がった。
武蔵もそこを付け目と踏み込んで、ローキックを連打して、ダウンにはならなかったがダウン気味のスリップでボンヤスキーに膝をつかせた。
ボンヤスキーはすぐに立ち上がったものの、苦痛に顔をゆがめて、脚を引きずるようなそぶりさえ見せた。
この時点で、ラウンドの残り時間は約20秒。
僕だけでなく会場の観客も、この20秒で決めろ、と固唾を呑んだはずだ。
ところが、武蔵はそこで踏み込まなかった。
ボンヤスキーの巧みな牽制の前に、踏み込もうにも踏み込めなかったのかといえばそういう感じでもない。
なぜかといえば、武蔵はラウンド終了後、足を引きずりながら引き上げていくボンヤスキーを尻目に観客に向かってニヤけて見せ、もう勝利はもらった、といわんばかりに拳を突き上げてアピールして見せたからだ。
相手の弱みを見ながら踏み込めずに、決めるべきところを逃した直後に、だ。

それを見て僕は一瞬、息を忘れるほどの怒りに駆られた。
この男は結局、勝負師になりきれない。
自分の中にある惰弱漢的な要素を、数え切れないほどの挫折を味わいながらも克服しきれない奴だ、と思った。
それでもまだチャンスはあるかとも思ったものの、第3ラウンドになると王者・ボンヤスキーは脚を引きずりながらも果敢に応戦し、たびたび先手を取り、武蔵の方にもスタミナの限界が来て、第2ラウンドほどのチャンスを掴むには至らなかった。
そして延長の第4ラウンドは、ラウンド前半にボンヤスキーが捨て身の連続攻撃で主導権を握り、さらに第5ラウンドになると、武蔵のスタミナ切れが顕著になって、ついにはボンヤスキーに立て続けに有効打を許し、当然のように判定負けという結末になった。
放送席は、歴史に残る名勝負だとかなんだとか美辞麗句を並べ立てていたけど、僕にいわせれば、延長の2ラウンドの白熱ぶりをもってこの試合が名勝負だったというにはあたらない。

勝負は、もっとずっと早い段階でついていた。
それは、第2ラウンドでボンヤスキーの弱り目に付け込みきれず、大魚を逸した格好の武蔵が、コーナーに引き上げながら観客席に向かってニヤケ面で拳を振りかざした瞬間だ。
詰めが甘い。攻め切れない。
長年言われ続けた武蔵の精神的惰弱さが、あのバカ正直なニヤケ面に集約されている。
1分のインターバルがあれば、相手がどう立ち直るか、もしくは戦術をどう切り替えてくるかもわからない。
それだというのに、ボンヤスキーの動揺を攻め切れなかった痛恨の表情の代わりに武蔵が見せた、あのニヤケ面ときたら。
虫唾が走って、それ以降の武蔵の粘り強い戦いぶりには、僕は気持ちよくついていくことはできなかった。
あらずもがなの延長、再延長。
そんなラウンドの存在自体が、武蔵の甘さを証立ててるとしか僕には思えなかったから。

武蔵は確かに強くなった。
あんなのは全部、K1プロデューサーにして格闘技オンチの谷川氏の演出の産物だ、という人もいるけど、僕はそうは思わない。
初戦のレイ・セフォー戦も、判定自体は微妙だったものの、あのセフォー相手にまったく互角に戦う姿は、紛れもなく世界の一流選手のそれだった。
でもそれでも、そこまでやってなお、生来の甘さは抜け切れないのか。
惰弱漢はついに惰弱漢でしかないのか。
あの20秒間の大チャンス、またはその直後、観客席にニヤケ面をさらしたあの瞬間、あるいはまた、その後の第3ラウンドの立ち上がりの1分を、痛恨の思いで振り返って、自分の甘さに気づき、取るところで取る、さもなければやられるのだという精神性にまで行き着くことは無理なのか。
ほとんどすべての一流の格闘家が、そういう精神性があってこそ、ギリギリの勝負を勝ち抜いて最高の舞台に立っている。
そんな中にただ1人、武蔵だけが混じっている。

あの決勝は、スタミナや執念の勝負にしてはいけない決勝だった。
ボンヤスキーが脚を引きずった、その瞬間に、まだスタミナのあった武蔵が仕掛けてローキックを乱れ打ち、血も涙もなく勝利をもぎ取らなければいけない戦いだった。
あんなクソみたいな試合をして負けて、それでも去年の準優勝よりは差は縮まったなどと無邪気に喜んでいる日本代表が悲しい。
勝負に徹することができないニセモノの勝負師のままなら、僕は興味がない。
同じ日本人選手でも、中量級の魔裟斗、山本KID、武田幸三らには紛れもなくそれか、それに近いものが高いレベルで備わっている。
なぜ彼だけが、10年もかけてあの高みにまで漕ぎ着けながら、画竜点睛を欠いたまま、己の欠陥にいつまでも気づけずにいるのか。
彼の存在が、僕には不思議で仕方ない。
01:00 | スポーツ | comment (-) | trackback (-) | page top↑
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