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Mon.

J・P・ホーガン「星を継ぐもの」を読む

今日はウォーキングに行くのをやめにしてから、おやつ+読書タイムを取って、SF小説「星を継ぐもの」の最後の方を読みました。
読み終えて思うこととしては、とりあえず評判ほどの作品ではなかった。
まず最大の問題は、昨日の段階で判明したことだけど、この作品の最大の謎(科学的に究明されるべきテーマ。ネタバレを避けるためここでは言及しない)が、あまりにも見え透いていすぎること。
僕は小説の初めの3分の1くらいのところでこの謎が提起されて、学者たちの話し合いが紛糾した最初の段階で、頭の中にある仮説を思い浮かべていたんだけど。
登場人物たちの誰一人、僕と同じ仮説を唱える役回りの人がいないもんだから、「いや、これは・・・?そんなバカな、こんな幼稚な謎を設定するわけがないだろうし。・・・でもまさか?」みたいな居心地の悪さを引きずったまま、物語の終盤まで読み進んでいたんだけど。

昨日、治療前の昼食をとりながらだったか、ついにその謎が解き明かされるシーンを読んで、そのむずがゆさは頂点に達しましたとさ。
どうもこうも、・・・大正解でやんの。(呆
散々もったいをつけて、主人公のハントとかいう学者先生はカッコつけまくりでキザったらしく、正確に僕の予期した通りの謎解きを披露して。
・・・待望の解答が与えられ、科学界は興奮の波に洗われ、マスコミ界は新たな取材合戦に狂乱を呈した。反論も異説もほとんど出なかった。ハントの仮説はもとより反論異説のつけ入る隙がなかった。ハントは完璧に責任を果たしたのだ。・・・
だとさ。
あまりにも酷すぎるよ、この古典的傑作は。

作者のJPホーガンさんとやら、科学的知識の深さ豊富さは見事な域だけど、人間ってものの賢さをまったく理解してないとしか思えない。
その程度の想像力なら、なにも主人公のスーパースター学者先生じゃなくったって、何人かに一人くらいは確実に備えているから、謎解きの論争をするうちには必ず一部の学者たちが正解にたどり着いてるよ。
僕だけが特別なのかも、なんて妄想に酔うにはあまりにも素朴すぎる、あまりにも初歩的なことだよワトスン君的な、単純明快な予定調和の、謎。
ただそれよりちょっと後、ダンチェッカーという別の学者が指摘することになるもう1つの謎解きの要素は、僕の想像よりももう1枚入り組んだもので、僕も予期できていなかったけど。
でもそれは、あくまでも添え物的なもので、メインディッシュはあくまでも上の見え透いた謎解きの方だから。
お話になりゃしません。

そういえば、登場人物はことごとく欧米白色人種らしいって点も実に妙だったな。(笑)
ラストでやっと、スーダンの発掘現場で働く現地人たち、なる人々が出てくるけど、彼らは明らかに単純労働力だし。
こういう種類の視野狭窄は、未来を描くSFではあまり見たくない。


あと、毒舌ついでにいうと、翻訳も悪すぎ。
翻訳者は池央耳火(「耳火」で1文字。読み方は知らない)という人なので、翻訳にこだわる方はブラックリストに載せといた方が無難でしょう。(※追記参照)
具体的に指摘すると、そのままじゃ明らかに意味が通らない場所を平気で放置してしまってる箇所が特に前半、何箇所かあった。
たとえば、たぶん原語はearthなんとかだと思うけど、「地球上」と訳してあるんだよね。
でも、そこで「地球上」が出てくるわけがないんだ。
地球上の話と行き来してるから判断が難しくはあるけど、そこは別の惑星の話をしてると解釈しなきゃ意味が通らないんだから。(笑)
「大地の上」、つまり「陸上」と訳さなきゃ意味の取りようがないのに、平気でそのままにしてる。

それから、主人公とダンチェッカーの関係の変化を、あまりにも素朴に両者の話し方に反映させすぎている点もものすごく不満で興が冷めました。
身分が下になった途端に(厳密にいえば、下というにも当たらないんだけど)、畏まって敬語を使いまくるダンチェッカー。
つい先日まで丁寧語を使っていたはずなのに、「~かね?」という具合ににわかに尊大ぶる主人公ハント。
2人にはかなり長回しの対話シーンもあるので、その違和感は無視しようもなく。
日本語は、そういうあたりをしっかり訳し分けないと、登場人物たちの人間性をさえ狂わせてしまう。
そういう意味でも、この本は非常にお粗末でした。
なんだかんだいいつつ、もうシリーズ3作ぜんぶ買ってしまったから、これから続編2冊を読まなきゃならないんだけれども。
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04:19 | 書籍批評 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Tue.

価値観本質論

昨日6時過ぎまで、おやつのチョコレートアイスなど食べながら母と話し込む。
僕がここ数日密かに標榜している独自の理論──人それぞれ違う価値観の「本質」の在り処について──からいろいろと発展して。
久しぶりに前向きな話がいろいろできたのがすごくよかった。
それで会話としては最終的に、
「押尾コータローはバカテク・ギタリストだが、テクニックさえあればいいという決め付けは持っておらず、『しょせんは軽業師に過ぎないかもしれない自分自身』を漠然とかもしれないけれども自覚している、言動に嫌味のない魅力的なギター小僧である」
というところに落ち着きました。

本論と結論とが微妙にズレているのは見ての通りだけど、まったく関係ないわけでもなかった。
僕自身の価値観の本質は「人間」であって、経済学でも法律学でも数学でも科学でもなく、また音楽でもない。
というような話の中から出てきたのが偶然、押尾コータローの名前だったから。
僕は音楽らしきものをやっているけれども、その実、どうやら音楽そのものが好きなわけではない。という事実と対比させる中で、いわば「音楽がどこまで好きかは怪しいものだが、誰よりもギターという楽器に熱中している男」としての押尾コータロー、だった。
そして僕はといえば、価値観の中心にあるのは「人間」ないし「人生観」であって音楽ではない。
そしてまさにその理由のために、結果として僕はある特定の狭い範囲の「歌」にだけ極端に惹かれる、という傾向がごくはっきりとしている。
そして、そういう僕の偏った音楽論は、往々にして優秀なバンドマンたちにはちっとも理解してもらえないし、話もまったく噛み合わないことが多い。
その理由はもっぱら、僕が人間マニアであって音楽マニアではない、というところにあると思う。


そうして、おやつを食べている間にもテレビには、例によって僕の嫌いなライブドアの堀江さんが出てきていた。
たとえば彼は、価値観の本質を明らかに「経済」に置いている。
ご本人がなんと言おうと、発言のいちいちがそれを前提にしていて、そして笑うべきことに、彼は世間のほかの人々もすべてそういう考え方をしている、もしくはするべきだ、と信じて疑わない。
たとえば、彼は昔なじみの友人らしいMファンドのMさんについて「頭がよく、魅力的な人である。魅力的な人というのはつまり新しい行動を起こす人であるということで~」と延々と語っていた。
でも、そのMさんという人は、話しているところをつらつら見たところ、少しも魅力的な人間ではない。
僕から見た場合のその人は、「ああ、顔といい話し方といい、これは信じてはいけない人間だな」というだけの人物でしかなく、そういう浅薄さを丸出しにして自ら気づかないあたり、お世辞にも「頭がよい」とはいえない。
ただもちろん、その彼は経済畑ですでにかなりの成功を収めている人物であるので、その筋では有能な人なんだろう。

そういう一連の価値観の乖離からはっきりしているのは、僕と堀江さんでは「頭の良し悪し」「魅力の有無」といったものを測る尺度がまったくズレている、という事実だ。
僕は堀江さんという人は頭が悪いと思っているけど、逆に彼が僕を見れば、「無能」という程度の言葉で括りきって、あとは一顧もよこさない可能性が99%だと推測する。
ただ、彼は彼自身の価値尺度以外の尺度の存在にうといがために、僕のように人それぞれの双方向の価値付けの落差を予見する能力は持っていない。
そういう視野の広い狭いという意味で、僕は少なくとも彼よりは勝っていると思っていて、そのことから彼の頭脳や人間性を云々しうるだけの自信を得ている。
もちろん、なんだかんだいっても、彼のように経済に価値基準を置く人は自由主義経済の中では立場は強い。
堀江さん程度の人があれだけ自信満々でいられるのも、まさにそのおかげだけど、それでもやっぱり、万能というわけにはいかない。
まさにその盲点を露呈した格好なのが今回の件で、彼は散々無駄口を叩いて敵を作り、敵たちを感情的にし、対立を生み、その対立をマスメディアに煽らせ、メンツの潰し合いにまで発展させ、結局は自ら招いた泥沼的な状況に苦しんでいる。

まさに昨日も、彼は「だって、みんな仲良く得をする方法があるのに、なんでわざわざ損になることをする必要があるんですか」なんてアナウンサー相手に開き直っていたけど。
「なんで」なんて話ではなくなっているんだよ、今はもう。
人間対人間の関係の中で起きる反射作用が、経済的なメリットやデメリットだけでは測りきれないものだというごく当たり前な事実に、彼は感受性がない。
既存のメディアをことさらにバカにして見せれば、マスメディアは当然その発言に注目し、警戒し、やや否定的なニュアンスを込めつつ報道するだろう。
現にマスメディアに携わっている、被買収側の日本テレビの社員たちは不満と不安をつのらせるだろう。
堀江さんが「支配というのは経済用語として使ったが、それが誤解された。言葉尻を捉えて煽ったあなた方マスメディアのせいだ」と釈明する「支配」という言葉も、経済用語としてのニュアンスとは別の響きを帯びて伝わることになるだろう。
「将棋でいえば詰んでいる」なんて彼は言わない方がよかった。
どれもこれも、ごく当たり前に予見可能な、一連の堀江発言に対する反射に過ぎない。
その程度のことも予測できない頭脳が、自負と自意識に鼻の穴を膨らませつつ、ブラウン管の中で息巻いている。


少し長くなったけど、彼の価値観の中心・本質、が経済にある、というのはおよそ以上のような観察から出ている。
それに対して、僕はといえば、まさに正反対の人間だと思う。
堀江さんが「もっと日本人は経済用語を勉強すべきだ」というのを聞いて、一般論としてそうかもしれないとは思いつつ、自分がそれをやっても仕方がないと思ってほとんど聞き流している。
僕は大学で経済学を専攻していたけど、経済というものには一切、食指が動かずじまいだった。
経済を知らなければ損をする、という堀江さんたち経済家の理屈はわかる。
ある意味、それが正論だろう、とも思う。
でも、興味がない、という事実は動かない。
僕は経済活動に関しては、主体的になりえない人間であるように思う。
堀江さんにはよくわからない話だろうけど、人間には適所というものがあって、僕の適所は、経済活動の主導権を握るポストとは違う場所にある。
という、ただそれだけのことなのだ。
まあたぶん。

言うまでもなく、すでに彼なりに「適所」を得ている堀江さんとは違って、僕の抱えている課題は膨大だ。
ただでさえ、「僕には人間がわかります」なんて言葉は人には受け入れられがたいものだし。
誰だって、人それぞれ、人間というものをわかっている。
堀江さんでさえ、経済的な視点から、彼は彼なりに人間観というものを持っている。
ただそれでも、僕にはたとえば堀江さんの言動から彼の盲点がわかるし、彼に対して巻き起こる反発を事前にリアルに予見できる。
具体的には、彼への反発が必ずしも守旧勢力ばかりでなく、中立であるべき立場からも噴出するであろうことを予期できていた。

誰かの発言を聞いても、音楽を聴いても、小説を読んでも、映画を見ても、テレビCMを見ても、僕は常に作り手の感覚や価値観を無意識に想像している。
そして作り手の感覚や価値観の反映を読み取れる作品を尊び、読み取れない作品を拒絶する。
そして、その作品中に投影された感覚や価値観が僕自身と重なるとき、掛け値なしにほれ込む。
それはこれまでの経験から判断する限り、「作品そのもの」にほれ込む人の感覚とは、かなり根本的に別種のものであるらしい。
だから、「音楽が好きな人」と僕は、必ずしも話が合わない。
この、僕独自の「人間」ないし人生観に視座を置く価値観の体系のようなものを、どうしたら誰の目にも明らかな僕自身の特性・個性として磨き上げ、証明していけるのか、というのが母と交わした会話のメインテーマだった。
そしてもちろん、どうしたらそれを経済的な自立にまでつなげていけるのか。
経済に価値の基準を置く人なら、当座は経済系の資格でも取っておけばいいところかもしれない。
法律なら、弁護士の勉強を進めておくとか。
でも価値観の本質が人間観では、そういう既成のレールに乗るような選択肢は存在しない。
小説を書くにせよ、本を読みまくるにせよ、歌を作るにせよ、価値観の浮き彫りになるようなアフィリエイト・ブログを作ってデータベース化してみるにせよ、あくまでも独自の努力として積み上げていかなくてはならない。


ただ今から何をやるにせよ、人はそれぞれ、その本質を踏み外してはならないものであるらしい。
ということを、今日は会話の中でまざまざと悟った気がした。
たとえば僕は、経済学部に入るべきではなかった。
今からも、たとえば金が必要だからといって安易に財テクになど取り組んでみるべきではない・・・まあ元手もないけど。
あくまでも、僕自身の価値観と興味との中心・本質である「人間」という線を外してはならない。
ということを思った。
そういう意味では、昨日詳しく書いたアフィリエイト・ブログの発想なんかは無理がなくて上出来な方だと思う。
そして、そういう価値観の本質を突き詰めていったとき、それがWさんの言う「天命」(=そのときそのとき、本当にやるべきことは常に1つ、というWさん独特の考え方)にまで行き着くものなのかどうかは、僕にはわからないことだけど。

とにかく、僕自身の価値観の軸が人間観にあって、その価値観を僕は離れてはいけないらしい、ということだけは、なんだかリアルにわかるようになった気がしたのです。
いつの日か、僕が僕自身を世に問うていくために。
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16:39 | 人生観 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Mon.

ブログ・アフィリエイト考

昨日、夜になるころにはもう何もできそうにないのがはっきりしていて、鬱気味で、主に経済的な見通しが立たないことをひどくストレスに感じる状態だった。
ので、これまでも何度か漠然と思い描いてきた「ブログ形式のアフィリエイトによる小銭稼ぎ」という方法について、これまでよりちょっとは具体的に検討してみた。
いろいろとノウハウサイトも当たってみて、現実的なところを。
それでわかったことはといえば、当たり前といえば当たり前だけど、なんとか金を生み出そう、という姿勢の小遣い稼ぎサイトはダメらしいね。
趣味なら趣味で、どんなに狭いニッチでもいいから専門分野を追求して、サイトとして面白かったり便利だったりすることが大前提らしい。
で、そう考えてみると、僕にはどうも、これという専門分野はない、という結論になりました。
今からことさらに追求したいような分野も特にないし。

ただ強いていえば、人間というものへの興味とか、ものの良し悪しを感じ取る個人的なセンス、は皆無ではないと思うので、そういう総合家的なセンスが果たしてアフィリエイトという方法の中でも説得力を持ちうるものかどうか、試しにやってみてもいいんじゃないか?
と思うようになった。
具体的にいうなら、それは「関心空間」方式。
http://www.kanshin.com/
「僕という人間が、興味を持ったもの」を批評して、それをデータベース化していくことで、そこに何らかの価値を生んでいくことはできないか、という発想です。
発想も何もないってくらい単純かつ非商業的なアイディアだけど、それしかないならそれをやってみるべきだし、それをやってみることによって、後から思いつくアイディアだってあるかもしれないし。
最悪、その取り組みを通して「僕はアフィリエイトではどうにもならない」という確認ができるかもしれない。
そうすれば今後は、これまでも数回にわたって僕の頭を悩ませてきた「アフィリエイトで少しくらいは稼げないものか?」という邪念ときれいさっぱりおさらばできるという計算です。


だからとにかく、何も手につかずに呆然としているよりは、やってみてもいいかもしれない。
もちろん、ここで扱うのは、僕の「好きになれるもの」に限定する必要があるね。
いつものように、批評すれば3つに2つはこき下ろす、という態度ではどうにもならないし、僕は好きになれないものを偽って褒めるなんて器用なことはできないし。
それからもう1つ思ったのは、「実際に取り掛かるのは、6月の完治(※Wさんによる完治予想時期)を待ってからのほうがよさそうだ」ということ。
やっぱり、日記にしてもこのブログにしてもそうだけど、鬱状態というのは文章に反映されてしまう。
なんとなく持って回った言い回し、妙に引っかかる毒舌、といったものが、どうしても顔をのぞかせることになると思う。
だから、アフィリエイト的なものをやるとしても、6月までは勉強とか取材的なこととか資料の整理に当てて、新ブログの立ち上げや原稿書きは6月以降に回す。
というのが妥当な態度なんじゃないかと。
そんなふうに思いました。

まあそうこうするうちに、6月を待たずに「いいや、アフィリエイトは。面倒くさいし」となる確率が99%だけど。(笑)
とにかく今の段階では以上のようなことを考えました。
14:53 | 雑談・座談 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
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