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Sun.

吉田秀彦-ヴァンダレイ・シウバ戦を見る

今日は9時からプライドを見て、吉田秀彦-ヴァンダレイ・シウバ戦にいたく感銘を受けました。
吉田は正真正銘の達人で人物。
あれほど美しいファイターがいるか、と思う。
あの物柔らかな顔をした人が、正視するに耐えないほどの野生的な迫力と破壊力を持つシウバを相手に、いかに誇り高く戦ったか。
しかも、これが初めての対戦ってわけじゃない。
だからあの激戦は決して、フロックなんかじゃない。

プライド・ミドル級では一度も負けたことがないという文字通りの最強王者。
ムエタイ・スタイルを基本としながら柔道でも黒帯を持ち、どんな展開の中ででも隙を見せずに容赦なく勝利をもぎ取るコンプリート・ファイターのシウバを相手に、吉田はすでに一度、判定にまでもつれ込む大接戦を戦っている。
ノックアウトで試合を終わらないことなどほとんどないシウバが、見かけによらない彼一流の真摯さも手伝って、今度はああはいかない、必ずきれいに終わらせてみせる、と再戦を望んだときに、彼は逃げてもよかった。
もともと、30を過ぎて柔道の現役を離れ、一念発起して始めた総合格闘技で、現実的に考えるなら文字通りの頂点に立つことなど、ほとんどドンキホーテの風車だ。
ところが彼は、穏やかな笑顔の裏で、本気でそういうことを考えている人だった。
猛獣のようなシウバの突進の前に、もう一度柔道着ひとつをまとって立つことを選んだ。

戦いの詳細は、スポーツナビなんかで詳しく見られるだろうからここでは書かない。
ただ最後の最後まで、吉田はシウバを苦しめ続けた。
戦いは終始、互いの敬意を感じさせる限りなくクリーンなもので、シウバが相手によっては破裂させる野蛮さなどとはまったく無縁だった。
最終3ラウンドにローキックを多用して主導権を握ったシウバの攻勢を前に、吉田は脚を引きずって、初めて明らかな劣勢に立った。
それでもなお、彼は一瞬の勝機に賭けてシウバをグラウンド(寝技)の攻防に引きずり込み、締め技であわよくばタップを、というところまで攻め返して見せた。
シウバはそれをよく凌ぎ、判定となればちょっと無理か、という空気の中で試合終了のゴングが鳴った。
2人は淡々と互いを称え合い、淡々とコーナーに引き上げた。
そして、ジャッジペーパーが集計され、読み上げられた。

「ジャッジ○○、──吉田」
吉田は驚いたように苦笑して、やや困惑した様子を見せた。
こんなので勝ったことにされても困るんだけどな、というバカ正直なくらいの表情だった。
シウバも一瞬、意外の感に打たれたような顔をしたものの、表情を鎮めて、静かに次のコールを待つ。
「──シウバ、・・・──シウバ。以上2-1の判定によりまして、勝者・シウバ」
吉田は初めて心から破顔して、シウバのもとに祝福に歩み寄った。
シウバも心からの笑みで、改めて吉田の健闘を称える。
試合後のインタビューで、2-1というジャッジについての記者の質問に答えたシウバのコメントが印象的だった。
「いい試合をしたと思うので、2-1には納得している。でも私が勝ったということには変わりはない」(スポーツナビの記事より)
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04:09 | スポーツ | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

批評という行為

僕は小説やら音楽やらの批評じみたことをよくやっているけど、その実、批評なんてことには実は毛頭興味はない。
僕が絶えずやっているのは厳密にいえば批評じゃなく、僕にとってその作品が有用か無用か、という取捨選択の話でしかない。
その作品の持つ客観的意味、なんてものには僕にとって何の意味もない。
あたりまえといえばあたりまえだけど、でもそういうことなのだ。
ノーベル文学賞まで取ったとかいう南米の作家ガルシア・マルケスの「百年の孤独」をイーブックオフで買うか買うまいかと迷いながら、ネット上の批評文をいくつか読むともなく読むうちに、そんなことを思った。

みんな、バカなことばかりいう。
何を書きたがっているんだ?批評ごときで何をやった気でいるんだ?
ノーベル文学賞を取ったのはお前じゃない。
ましてやノーベル文学賞を取ったところで、アメリカ人のソール・ベローの「この日をつかめ」なんて噴飯モノの駄作だし、大江健三郎のピークは僕にいわせれば受賞に先立つこと数十年前の「遅れてきた青年」だ。
ガルシア・マルケスが正真正銘の天才作家か、ぐうぜん脚光を浴びた南米の馬の骨か、僕は知らない。
コバンザメ狙いのゴシップ記事ならゴシップ記事らしく、もっとチンドン屋みたいに自分を捨てて盛り上げれば?
僕が知りたいのは、そんな月並みな作家論じゃない。

他人の智におもねることで自分の智を気取るなよ。錯覚してるんじゃないよ。
本当に賢いのは、おまえさんたちじゃない。
14:11 | 人生観 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Fri.

サッカーにおける審判への抗議について

サッカーの試合における審判への絶え間ない抗議。
ファンにとっては見慣れた光景ですが、日ごろサッカーを見つけない人の中には、強い違和感を抱く方もいるようです。
たしかに、抗議するのが当たり前、といったサッカーでの常識は、ほかのスポーツではまったく通じません。
でもなぜ、サッカーでの抗議はああも激しく、また回数的にも飛び抜けて多くなるんでしょうか。
このいわばサッカー独特の風習は、果たして改められるべきなのかどうか。

個人的には、サッカーの審判のジャッジというのは、「天候」や「ピッチコンディション」と同じ、環境の1つだと思っています。
もともと、たった3人の審判ですべてを把握しようとするには、サッカーのピッチはあまりにも広すぎ、競技の性質も複雑でありすぎます。
だから当然、判定基準にもブレが出て、審判ごと・試合ごとに大きく変わるし、選手たちも最初からそういうものだと思って戦っている。
そして、雨が降っていてピッチがスリッピーだから、今日はグラウンダー(ゴロ)のシュートを早めに打っていってみよう。とか、
審判の判定がシビアなようだから、今日はスライディングは控えめでいこう。
といった具合に、サッカー選手たちは常に環境を念頭においてゲームプランを組み立てていく。

ただし、「審判」という環境面の一要素が、ほかの天候などの要素と決定的に違っている点が1つあります。
それは、風向きやピッチコンディションと違って、審判の判断が「アピールなどによって左右される余地がある唯一の環境」である、という点。
そして、サッカーは本当によく見てる人ならわかると思うけど、滅多に入らない「得点」だけを争うスポーツじゃなくて、試合の「流れ」の取り合い、っていう側面が絶対的に大きい。
その視点から見ると、審判への抗議は、あまり美しいものではないにせよ、サッカーの欠かせない一面としての性質を帯びてきます。
もしサッカーが単に得点だけが楽しみのスポーツだとしたら、あんなにトライ&エラーの繰り返しばっかりのスポーツなんか、夢中で見たりなんかとてもできないと思う。

試合の流れっていうのは必ずしもボール支配率とは関係ないし、選手たちのプレーぶりいかんだけで決まるものでもなくて。
ある程度、目に見えない何かや、それに「環境面」や「チームの士気」にも左右されるもの、なんですよね。
その、「環境面」や「チームの士気」というレベルでの争いが、審判への抗議やアピールという形にもなってくるのだと僕は思っています。
たとえば、相手チームが抗議していて、自分のチームが抗議しないと、それは判定基準が不利になる(かもしれない)だけ、では済まなかったりするわけです。
士気が下がる、気で押される、位押しに負けてしまう、っていうようなことが、サッカーの試合では現実に起きる。
そういう部分でチームを高度に統率できる人は、たとえプレーぶりがパーフェクトじゃなくても、性格的に難があっても、サッカーの世界では居場所を見つけてると思う。
ビッグネームでいえば、ドゥンガとかチラベルトとか。

フィールド上で、野蛮な顔で激昂して審判に詰め寄ったり、過剰なチャージで相手選手を必要以上に吹っ飛ばしたりしてる選手が、フィールド外では知的な紳士だったりする場合もあって、面白いんですよね。
そういう選手に惚れ込んで見ていくと、試合全体で争われてる空気や流れ、得点が生まれる必然性をいかに醸し出していくか、なんてことが見えてくる。
ほかのスポーツ以上にサポーターの存在価値が重視されるのも、単に選手を勇気づける応援というレベルじゃなく、「流れ」の取り合いという側面から見たときに、彼らの応援が決して勝敗に無関係ではないからだと僕は思ってます。
02:23 | スポーツ | comment (-) | trackback (-) | page top↑
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