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Fri.

「不慮の事故」は防げるか

今日の毎日新聞の夕刊に
「幼児の死は不慮の事故によるものが最も多く、その多くはわずかな注意で防げるものだ」
という趣旨の記事が載っていたけど、あの記事は果たしてどうかと思いましたね。
個人的には、少しばかり無神経な印象を受けました。
記事本文はまだしもそれなりの妥当性も感じられるものだったけど、何よりもその「少しの注意で防止可能」という見出しに。

たしかに、幼児の死は不慮の事故によるものが多いでしょう。
その不慮の事故は、幼児と一緒にいた親なり誰なりが、わずかな注意を欠いた隙に起きていることでしょう。
でもだからといって、そのことが「わずかな注意で防げる」ことを意味しているのかといったら、それは違う。
と思うのです。


絶えず絶えず、24時間、目配り気配りしながら懸命にわが子を育てている親がいたとする。
でも、その注意の目がふっとよそにそれたときに、わずかな不幸な偶然が重なれば、幼児は死にます。
まさにその運命的な瞬間に、親なり誰なりの注意がそれてさえいなければ、それは防げたはずの事態だったかもしれない。
でも、一体いつがその運命的な瞬間なのかなんてことは、誰にもわからない。
そしてどんな超人的な注意力と愛情を持った親だって、文字通りの意味では決して、24時間抜かりなく目配りを続けることはできません。

ビニール袋を出しっぱなしにするなといったって、一体どこの誰が、わが子をビニール袋から完全に隔離できるものか?と思う。
読者にそのごく当たり前な事実を「踏まえさせる」ための工夫が、あの記事にはなされていない。
「わずかな注意で防げる」というのは厳密にいえば実はまったくの空論であって、ある特定の運命的な瞬間に注意がそれてしまうということは、むしろ事実上の不可抗力だと思うのです。
人間の子供といえども、実際は絶えず死の危険にさらされながら成長していくものであって、死というのは可能性こそ低いものの、ごくあたりまえに起こりうることだ、という認識が底になければ、記事は不運に見舞われた親たちにとってきわめて公平を欠いたものになってしまう。


ほんのわずかな不幸な偶然から子供を亡くしたり、一生残るような障害を負わせたりしてしまって、深く自分を責めている親があんな記事を見たらどう思うか。
この記事には、そういう部分への気配りもなければ、工夫もない。
と思って、小さなことながらもちょっと腹立たしく思いました。
たとえば、一種のよき放任主義で、子供を毎日外で遊ばせて、泥だらけで帰ってくるわが子を明るく迎えているようなお母さんがいたとして、その子がある日、公園の池で溺死してしまったとする。
その母親を責める権利が、誰にあるものか、ということを思う。
そういう意識が高い担当者であったなら、同じ内容の記事を書くとしても、多分こういう書き方はしなかったんじゃないか、と思えてしまって物足りなかった。
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22:30 | 時事・社会 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Wed.

ハーグローブ監督追放論

ハーグローブって誰?
って方も多いかと思いますが、イチローが所属するマリナーズの現監督の名前です。

さっきまで、昨日に続いてギターを練習しながらマリナーズ・ヤンキース戦を見てたんだけど、1マリナーズファンとしていわせてもらえば、どうもあの監督は無能としか思えない。
野球のプロフェッショナルじゃなきゃわからないような、細々した実技的なことについては、語れば語るだけ僕自身の無知をさらすことになると思うからやめとく。
でも、僕が不満を覚えるのは、もっとずっと初歩的なこと。
具体的にいえば、打順の組み方だ。

イチローが1番というのは、まあいいとしよう。
というか、チーム状況が悪くなっても1番として使い続けていてくれる(中軸に動かさない)という方針については、イチローファンとしてはありがとうといいたいところだ。
でも、彼の戦術には根本的な固定観念というか、バカの壁としかいいようのない穴があると僕は思う。
それは、1番打者は9番打者の次の打者である、というごく初歩的な事実に無感覚であることだ。


無為無策のハーグローブといえども、打順をたまにはいじっている。
けど、いじるのは2番⇔7番、5番⇔6番打者の入れ替え程度で、特に下位打線については大した配慮をしているとは思えない。
結果として、下位打線を主に打っているのは、打率が安定して1割台という恐るべき無能打者コンビ、キャッチャーのオリーボとショートのバルデスの2人だ。
打順が8番から始まるイニングなんか、2死ランナーなしでイチローが不景気な顔をしてバッターボックスに立つ確率の統計を取りたくなるくらいに、彼ら2人は打者として無能だ。

打者として無能だが、ディフェンス力を買って使うのだ、というのはまあいい。
でも、だとしたらなぜ、彼ら2人を7,8番あたりに置き、ウィンとリードのうち2番を打たせない方(ハーグローブは常に7番打者として起用)を本人に意図を説明した上で9番に据える、という程度の工夫ができないか。
ラインナップというものは、1番で始まり9番で終わるものだ、というようないわゆるバカの壁を、あの監督は持ってしまっているとしか思えない。
7,8番あたりを多少妥協して、9番にはそれなりの打者を置き、イチロー以下の得点圏打率に期待する、というのは先々代のピネラ監督時代以来のマリナーズの伝統的な姿勢だったというのに、なんていう興醒めな不勉強ぶりかと思う。


さらには、去年から調子を落としている打点屋ブーンをはじめ、今季絶大な期待と莫大な年俸を背負って入団した新戦力ベルトレー、セクソンからなる中軸。
あの大バカのハーグローブは、彼らをほとんど固定的に
3番 ベルトレー .246 本4
4番 セクソン  .227 本10
5番 ブーン   .250 本4
という組み合わせで使い続けている。(成績は5/13現在。TSP SPORTSより)
新戦力2人はもちろんのこと、ブーンの成績も期待を大きく下回る出来なのはいうまでもない。

が、これをこの状態に固定して我慢して使い続けることには、僕にいわせれば全然まったく、何の意味もない。
僕ならこうするだろう。
3番 ブーン   .250 本4
4番 ベルトレー .246 本4
5番 セクソン  .227 本10
打率と本塁打数だけではまったく納得してもらえないだろうけど、根拠はもちろんある。
それも、ごく明確なものだ。

まず3番のブーンは、とうに30代のベテラン選手ながら名前の通りのブンブン丸タイプで、一見5番打者にふさわしく見える。
ただ彼のベストイヤーだった2002年の成績を見ると、実は3割を優に超える打率を弾き出し、長打力もあいまってリーグの打点王を獲得するような、いわゆる「シェアな」バッティング(←どうでもいいけど、この表現の語源がどうしてもわからない・・・)ができる選手だ。
彼の本来の動きを取り戻させるためにも、去年までと同様に1,2番の後を打たせ、チャンスを広げる役割を再認識させることには大きな意味がある。


そして4番に挙げたベルトレーは、まだたしか25歳で、去年はドジャースでリーグ本塁打王になった将来に絶大な期待をされている選手。
ただマリナーズ入団後は、まるで去年の活躍がフロックだったかのように鳴かず飛ばずに陥り、たまに役に立ったかといえばそれもしぶといシングルヒットだったりと、極端にスケールダウンしている印象がある。
打率が低くても本塁打だけは打っているセクソンと比べれば、4番打者としてはふがいなさすぎる、というのも一論ではあるだろう。

でもそんなマヌケたことをいっていられるのは、彼に将来の主力選手を期待せず、彼を獲得するために費やしたあの莫大な投資を無にしてもいいと言い切れる人だけであるはずだ。
彼が大成しなかったら、マリナーズは彼の高額年俸をドブに捨てた形になり、チーム自体の運を失ってしまう。
打点屋のブーンと長打力のセクソンの間にあって4番を打つ、というポジションを彼に与えることによって、本来のポテンシャルを発揮させようとするのは、ごく自然な打順のアヤというものではないのか。


そして、5番セクソン。
彼は2メートルを超す長身と圧倒的なパワー、そして三振癖を持つ、典型的な5番タイプだ。
並外れた長身ゆえの広大なストライクゾーンと、30代という年齢から、今後さほどの打率の向上は見込めず(といっても、今年の現段階での打率からは上がっていってもらわなければ困るが)、それゆえに起用の方針としては、長打力を主に期待したものにならざるをえない。

また、そういう首脳陣側の期待さえはっきりしていれば、それに余裕をもって応えるだけの巨大なポテンシャルと実績を持った選手でもある。
ガタイのわりに知性もあって、実にいい面魂を持っているし、優秀な一塁手でもある。
品位もあり、メジャーリーグでも僕の見るところもっとも品位の高いチームであるマリナーズにはよくなじむだろう。
使い方さえ間違えなければ。
だから、彼には、5番がいい。

このクリーンナップは、時間をかけて使えば必ずなじむだろうし、結果が出れば相乗効果でよくなっていき、チームを勢いに乗せるだけの可能性を秘めている。
というよりもむしろ、なぜこの程度の小細工が、あのハーグローブの脳ミソには浮かんでこないのか、というのが僕にとっては謎だ。


今日はメジャーリーグ中継を見ながら懸命にギターを練習して、当初は昨日よりは指がよく動いてる気がして喜んでいたけど、だんだん苛立ちが抑えきれなくなった。
試合展開やマリナーズの今季の成績を見てもらえればわかるだろう。
シーズン前には巨額の補強をしてビッグネームを2人も獲得し(ベルトレーとセクソン)、イチローも一部の期待ほどじゃないとはいえ例によって3割5分近くを打っているというのに、首脳陣の無為無策ゆえに低迷して、ここまで苦しんでいる。

こんなストレスフルなチームであり続ける必然性は、致命的に戦力不足だった昨季はともかく(更迭されたメルビン監督は気の毒だった)、今季にはない。
指揮官の無能無策が、すべてとはいわないまでもまず大半の原因だろう。
彼が彼なりに工夫をして、僕とは違う打開策を試し続けているというのなら、それはそれでいい。
でも現状のように、ただ無為のまま我慢しているだけ、なんてのは監督の仕事ではない。
どんな仕事でも同じことだが、ああいうバカが上に立っているようでは、実地にプレーしている人間がたまらない。

こんなところで何を書こうが天に唾ってものだけど、マリナーズのフロントは早々に、ハーグローブの更迭を検討するべきだと切に思う。

ICHIRO (2)


<追記>
参考までにハーグローブの過去の実績を。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/headlines/20041021-00000008-kyodo_sp-spo.html
なんで勝てたんだろうね。あの人。(ボソ
15:36 | スポーツ | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

OutlookExpressに計り知れない憎悪

マイクロソフトのOutlookExpressに計り知れない憎悪。
もう滅んでほしい。倒産してほしい。
ビルゲイツだかジュリアロバーツだか知らないが(←とばっちり)、社員もろとも路頭に迷え。
野垂れ死ね。

これは、これっぱかしも冗談ごとじゃなく。
勝手にヤフーアドレスからメールをダウンロードして取り込んで、それだけならまだしも、ヤフーのネット上のサーバーからはぜんぶ消しやがった。
そういう設定を明確に意図してやった覚えが僕にはなく、しかも僕はパソには詳しくないものの、一般的にいって極度に慎重で、過去の人とのやり取りを大切に残そうとする人間だ。
おまけに、基本的に、僕はこのOutlookというソフトをもともとまったく評価していない。
かつて試したときに、無駄に重くてゴミクズのようなソフトだなと思ってやめた。
というか挫折した。
それを久々に開いてみたのは、このあいだ登録した新サーバーのメールアドレスが機能するかどうかチェックするためでしかない。
そして2つ3つ、不得要領のままフォルダを開閉するうちに、こういうことになった。

じゃあ、かくなる上は、パソ内のフォルダに大事に保存することにすれば一応いいかというと、そうはいかない。
このバカOutlookは、ダウンロードしたメールを独自の規格で保存してしまうらしく、すべてのメールの情報がたった1つの、~.pstというキテレツな拡張子のファイルにまとめられてしまう。
ノートソフトなんかで開いてみても、暗号化されてるのか何なのか、マトモな文字列なんかは出て来やしない。
要するに、Outlookでしか開くに開けない独自の規格に変換されてしまうらしいのだ。
これでは事実上、もう復元は不可能だ。


しかも、文句の種はまだまだある。
僕はマイクロソフト社のオフィシャルのヘルプページほど検索性の低いQ&Aを、パソを始めてこのかた一度として見たことがない。
何を探そうとしても、目的の内容には決してたどり着けないようにできている。
そもそも、設計理念からして根本的に間違っているのだ。
すべての情報が、作り手側の価値付けに従って網羅されてしまっている。
天下のマイクロソフト、検索のシステムは完全無欠だ。何を訊いても山ほどの情報が吐き出されてくる。
が、それが操作に迷ったソフトユーザーのニーズとはまったく一致していない。
技術バカのコチコチの技術者が自らに酔うために作ったとしか思えない。

今回、僕はマイクロソフトにハラワタが煮えくり返るほど腹を立てているけど、この自己満足丸出しのQ&Aの問題は、それよりずっと前からの変わらざる認識だ。
こういう企業には、サポートも期待できない。
こういう企業が幅をきかせていることを心から残念に思う。
メールを手紙のように使おうと、高速の実用的な連絡手段として使い捨てようと、それは個人の勝手というものだ。
僕は前者であり、そして言わせてもらえば、このクソOutlookは、ごく明確に後者に特化して作られている。
そういう感触が、僕のこの憎悪の本質だ。


人文的な感覚の欠落した、技術面以外は盲も同然の、専門バカ丸出しの純粋技術者という人種は根絶されるべきだ。
Outlookといいヘルプページといい、マイクロソフトにはそういう臭いがプンプンする。
虫唾が走るほどに嫌いな空気が。
そして、そういう人種の作るものは、僕にとって往々にして足手まといだ。
Windowsそのものはどうなのか、というツッコミはやめにしてもらいたい。
Windowsは一切を可能にするために作られ、いわば設計思想というものが比較的出にくい、一段上のポジションにあるものだ。
目的意識が鮮明な下位のソフトになれば、作り手の人格や思いは、人間音痴の技術バカどもにはわからないレベルでむき出しにユーザーに伝わってくる。

高ければ高さが、低ければ低さが伝わる。
だから、WordやExcelならまだしもOutlookなど、僕は使いたくもない。
そのソフトが勝手にバカをやって、自分にはそれをどうすることもできないことを思うと、鳥肌が立つほどに腹立たしい。
だから冒頭の、路頭に迷え、野垂れ死ね、という呪いが口をつくようなことにもなるのだ。
マイクロソフトの独占状態、滅んでほしい。
国産メーカーたち、いつまでもWindowsにおもねっていないで、新興の中印あたりと組んでアジア圏独自の一大規格を立ち上げてくれないかな。
そんなことでも思わないと、この胸糞悪さはどうにもならない。
03:17 | 雑談・座談 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

107人死亡事故について初めて語る

踏み切りの異常を伝える発光信号の謎の誤作動により、対向の特急列車が100m手前で緊急停止。
奇跡的に二次災害を回避。
そんなニュースにちょっと感動。
まあこんな寝言を言っていられるのも、知り合いに一人の犠牲者もいなかった極楽トンボの薄っぺらな特権だけど。
しかしそういうドラマ性はさておき、二次災害が起こらなかったことは、まだしもかろうじて幸いだった。
鉄道事故で、それも火災とかがない純粋な衝突事故で、100人以上が死ぬなんて、それだけでもほとんどありえないような悪夢なんだから。


ニュースに出てきた数多くの遺族たちを見ていて、僕はほとんど不思議な感がした。
大半の人たちが、悲しみと怒りを深く鎮めた沈痛な、でも誇り高い冷静さをたたえた顔で、努めて落ち着いてマスコミの取材に答えていた。
なんでこんなに優れた人たちが死亡事故の遺族なんて立場に立たされてしまったんだろう、と思わされてしまうことがあまりにも多すぎた。
そしてそのことは、必然として、死んだ連中もまた、彼らとともに暮らし語り合って生きてきた、優れた人たちがひどく多かったってことを意味している。

僕は優れた人間が好きだ。
一人一人、みんな大事な命、なんて浅薄な空事には、酷薄なようだけどまったく興味はない。
優れた人には、生きていてほしい、と思う。
これは学歴とか知能とか芸術的才能とか運動神経とか、の話ではなくて、もっと高い、全人格レベルでの(つまり、もっとありふれた意味での)「優れた人たち」だ。
彼らが口を開いて語りだせば、僕はその人たちの背景を何も知らなくても、ああ優れた人だ、ということが直感的にわかる。
そして、彼らに不幸があったと聞けば、彼らほどの人たちがよりによって、と思わずにはいられない。
この心の働きは、僕自身の多難な半生の反動も多少はあってなのかどうなのか、自分でもどうにも止められない。


なんでこんな優れた人たちが、と思う。
あるいは逆に(まったく口にするのもおぞましいことだけど)ケースによっては、まだしもよかった、マシだった、と心をなだめてしまうこともある。
優れた人間が不幸になるのを見るのは、とにかく絶対的に嫌なのだ。
謝罪行脚のJR社長に「仏壇に声に出して謝れ」とか「聞こえないぞ、声が小さい」とか喚き散らしてる人も見たけど、あれは仕方のない感情というものだし、それにむしろ、この件の遺族たちの中ではどちらかといえば少数の姿であるようだ。

僕は自宅にいる時間が長いから、ニュースをほかの人たちよりはたくさん見た。
ニュースは所詮ニュースでしかないとはいえ、それでも比較的多くの時間、彼らの言葉を聞き、顔を見続けた。
そんなに、自分の中に沈めて耐えないでいいよ。
もっと、見苦しくなっていいよ、とむしろ言ってあげたくなるような、本当に苦しい人たちの顔を、あまりにもたくさん見た。
なんでこんな人が被害者や遺族にならなきゃならないんだ、とそのたびに思った。
故人の人柄や最後の日の行動を伝えるたぐいのお決まりの下世話なドキュメントさえ、消すに消せずに見入ってしまうことが多かった。
この事故は、いろいろな意味で、耐え難いことの多い事故だった。


立ち直ってほしいとか、言うに言えない。
立ち直れるものなら、彼らは立ち直るだろうし、彼らの中に立ち直れない人がいるなら、それは彼らじゃなくたって、僕が成り代わってみたって、やっぱり立ち直れないほどの痛手なのに違いない。
どうしようもないことがこの世にはある、と僕は何度も書いてきたけど、そしてそれは往々にして自分自身の半生を語る言葉だったけど、死というものは十何年という歳月の断絶よりもなお大きくて高い壁のようなもので、取り返しがつかないどころか、挽回のチャンスさえももう与えてもらえない、最後の絶対的な乖離なんだと思う。

はるか遠くでのんびりとテレビを見ていてさえ、ずいぶん悲しい思いをした。
彼ら自身の胸の内なんて、察することさえ満足にはできない。
ただただ、無力なものだ、と思う。
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15:17 | 時事・社会 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
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