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Sat.

鯨肉喰らうべし

毎日新聞より、「くじらバーガー:英国の動物保護団体が非難」とか。例によってヨーロッパ系の動物保護団体連中が騒いでいるようだけど、僕はこの問題に関してはことのほか冷淡です。
クジラ肉、大いに食べればいいでしょう。クジラの個体数の増減を明確な根拠としない、昨今の感情的な捕鯨排斥論は、文化を解さない未開人の言葉として黙殺していい。この件については、この記事なんかも示唆に富んでいて、とても参考になるんじゃないかと思います。

鯨の肉を食べるという文化は、捕鯨制限による鯨肉の希少化によって衰退が著しいから、実のところ僕も食べた記憶がないのだけど。鯨の肉をことさらに食べるな、という主張には、そもそも科学的根拠は何もありません。科学的根拠(種の保全)に基づく制限は、すでに捕鯨諸国もとうに守っているから、今やほとんど議論のネタにはなっていないし。
具体的な検証は、たったいま検索で偶然見つけたこのページの「スーパー・ホエール──海に住む我々の親類」の項に譲ります。クジラの神聖視がどんなところから始まったものかなど、ずいぶん詳しく書かれた論文のようだから、手間が省けてよかった。


リンク先の論文でも取り扱われている鯨の「作られた聖性」の問題は、そのまま欧米人のお好きな牛肉にも当てはめることができるんだよね。具体的にイメージしてもらうとすれば、「仮にこの世がインドなどヒンズー教国家の天下であり、なおかつヒンズー教国家が今日の欧米諸国の過激論客たちのように手前勝手かつ他国の文化に対して偏狭であったらどうなるか」という仮定が一番いい。

いうまでもなく、ヒンズー教においては「牛は聖なる動物」です。もし世界がヒンズー教の天下なら、今日のクジラ教の諸氏のごとく、ヒンズー教を信奉する過激動物保護団体の論客が、「聖なる牛を食べるとは、アメリカやイギリスの連中は野蛮人か!」と吐き捨てることになる。これはもう、当然の成り行きというべきでしょう。そして、その主張の前には、ヨーロッパ諸国が数百年かけて築き上げてきた食文化も何も、ケシクズのように吹っ飛んでしまいかねないということも。
でも果たして、国際社会の文化的パワーバランスという見地から見たときに、そういう風潮は可とすべきなんだろうか?僕には、到底そうは思えません。だから、一部欧米主義者たちのクジラ食排斥運動に対して、唯々諾々と流されることには断じて賛成できない。

日本人が先祖代々築いてきたクジラ食の文化は、すでに根絶の危機にあります。それを、いちファストフード店が、伝統食とは縁もゆかりもないハンバーガーという形で出すということが、果たしてクジラ食の文化の再興につながりうるのかどうかとなると、それはわからない。けれども、こんな形であっても、クジラ食ということに対する現代日本人の意識を高めるという意味はある、と考えます。
アフリカのサバンナでは、日々何百も何千も、ひょっとしたら何万ものシマウマやらインパラやらが、生きながら食われて死んでいきます。果たして、その自然本来の光景は、クジラ漁と比べたときに、クジラ教の狂信者たちがいうほどに残虐でないといえるでしょうか?

またたとえば、中国人は犬(チャウチャウ犬)を食べる、という話がある。僕は子供のころからの犬好きであって、そのことを思うと胸が痛むし、たとえ中国にいって機会があったとしても、犬料理を食べてみたいとは思わない。いや、たとえ好奇心に負けて食べてみたとしても、胸の痛みはそれとは別に拭いがたく残るでしょう。けれどもそのことさえも、僕は基本的に、自分自身の主義ないし趣味嗜好の範疇にあるものとして飲み込まざるを得ないと思う。


欧米人や日本人は、ヒンズー教徒が聖なる動物だとする牛を屠殺しては食い散らかし、食べ残し、平気で捨てる。でもその牛たちは、屠殺場に連れて行かれる日には、普段との様子の違いを敏感に察して落ち着かずに動き回るのだという。クジラ教の狂信者諸氏は、その牛を神聖視するヒンズー教徒を笑えますか。あるいは、イスラム教の一部過激テロリストたちが、「汚れた豚を食うような欧米人などは殺されて当然だ」というときに、彼らは何といって反論するんだろう。
クジラの神聖視と、それに根ざしたクジラ食批判のムーブメントとは、ことほどさようにバカバカしいものです。

菜食主義者になって、あらゆる肉食を排撃するというのなら、まだしも志は買いましょう。それさえも、僕はアフリカのサバンナで見るような自然の尊厳を汚すものだと思うから、決して賛美はしないけど。ただ、上掲の記事にあるような、盲目的なクジラ食批判は、本当の文化人のよくするところではない。自我肥大に膨らみきった盲目的欧米至上主義者の妄言に過ぎない、と思う。
クジラ食の文化を守るため、という直接の目的ももとよりですが、それと同時に、一部欧米人の自文化偏重主義へのアンチテーゼとして、このファストフードの件は決して頭ごなしに非難されるべきものではない、と信じます。
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22:53 | 時事・社会 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Fri.

「愛すべきイマイチくん」加地、ドイツにて化ける

昨未明は自宅療養生活のメリットを最大限に発揮して過ごしました。つまり、早朝3:45キックオフのコンフェデ杯ブラジル戦を生放送で見ていた。素晴らしい試合だったものの、さすがに直後には日記を書く気も起こらずに、しばらくして寝てしまったので、いま書くことに。
とりあえずは毎試合恒例の採点から。

<GK>
川口能活:6.5(ビッグゲームでよく目にする「神がかり」のときの川口でこそなかったが、最後尾で存在感を発揮。)

<DF>
田中誠:6.5(前半の立ち上がりはやや頼りなかったが、その後はブラジルの攻撃陣に対して見苦しいところを見せなかった)
宮本恒靖:6(田中と同様の評価だが、比べるとやや遜色)
三都主アレサンドロ:5.5(闘争心は評価したいが、中盤深い位置での無駄なドリブルなど、やはり頭の使い方がいまひとつ)
加地亮:7(序盤に誤審によるオフサイドで取り消された幻のゴールは素晴らしい落ち着き。ほかの局面でもしばしばブラジル人選手を呑んでかかり、しかもそれが油断につながっていなかった。どうやら、完璧に化けた。年俸でいうと1500万円の選手が8000万円になった感じ)

<MF>
中田英寿:6.5(中盤の背骨。嫌も応もなく、やはり別格)
小笠原満男:5(いいプレーもあったが、全体として精彩を欠いていた。ドイツでの3連戦はやや竜頭蛇尾に終わった)
⇔中田浩二:5(遠藤を出した方がよかったか。足元の勝負でなかなか勝てず、スピード不足も目立った)
中村俊輔:6.5(本人はずいぶん満足しているようだけど、冒険的であるがゆえにミスも多く、未だに中盤の柱になりきれていない印象。相変わらず、身体を張るべきところで張れないシーンもあり、それがブラジルの先制点にも直結している。結局、評価できるのは2発の大仕事をはじめとする「一撃」だけ。中盤の選手は、それだけでは諸刃の剣というのに近い。そろそろ一発屋を卒業してほしいが、やはりあの身体では無理なのだろうか)
福西崇史:5.5(貢献はもちろん絶大だったはずだが、一発で取りに行って鮮やかに抜かれる、というシーンがあまりにも多過ぎた)

<FW>
玉田圭司:5(ブラジル優勢の時間帯が長かったのは不運だったが、前半のみの出場であまり貢献できず)
⇔大黒将志:7.5(創意に満ちたプレーでチーム全体を活性化し、同点弾も決めた。中村の惜しいスライディングシュートをアシストしかけたのも彼)
柳沢敦:6(ここしばらくの攻撃的な姿勢を維持し、戦略的なFWとして機能。バーを直撃したヘディングシュートも惜しかった)
⇔鈴木隆行:4.5(出場時間も短く、採点なしでもよさそうだが、強いて点をつけるならこうならざるを得ない。彼の投入は明らかな采配ミスだと思う。ブラジルのような純・テクニカル、かつ攻撃的なチーム相手では彼は生きない。敢えて使うならパワープレーだろうが、日本チーム自体にそういう共通理解があるわけでもなく、センタリングのボールを競るようなシーンもあったかなかったか。ひたすらフィールド上をさまよい続けた)

※※※※※


ジーコ自伝―「神様」と呼ばれてジーコの評価については、かなりよかったといわざるをえない(基本的に監督ジーコに対してはアンチの立場)。中田浩二と鈴木の投入はいずれも采配ミスだったと思うけど、それ以前にゲームプランが見事に当たっているわけだから。
リスキーにも見える4バックの採用が奏功し、頑なに使い続けてきた加地がどうやら本当に化け、ボランチ・中田英俊もまずまず機能し、といったこの試合のベースの部分はジーコのプランがことごとく具現化したもの。総合評価をいうなら、まず7.0といったところか。

ただし、今後も彼が4バックにこだわってチームを作っていくであろうという見通しに基づいて考えると、多少の不安もある。たとえばジーコ日本は、おそらく「南米のチームに強く、ヨーロッパのチームに弱い」のではないか、という懸念。これはジーコが南米出身だからとかじゃなくて、「攻め合う」スタイルに強く、「受け潰す」スタイルに弱い、という傾向があるんじゃないかということなのだけど。ヨーロッパのサッカーを「受け潰すサッカー」と一くくりにする気はないけど、ブラジルやアルゼンチンのサッカーと比べたときに、傾向としてはそういう見方もできるんじゃないかと思う。

大型の選手がコンパクトな中盤~ディフェンスラインを構成し、フィジカルの強さを生かしてハードに守る。そしてボールを奪うや、手数をかけずに速攻。というのが、大雑把にいえば今のヨーロッパサッカーのスタンダードだ。そういうサッカーを前にしたときに、ブラジルからは2点を奪った日本の攻撃陣は、果たして点を取れるのか。いうまでもないことだけど、「本物の」ヨーロッパサッカーはサッカー三流国ギリシャなどとはわけが違う。
ただその点についても、過去にジーコ日本はチェコに勝ったこともあることだし、それなりのバランスを模索していくことも可能なのかもしれない。

何にせよ、ジーコ日本でこれだけの結果が出せた以上は、もうワールドカップ前での監督交代は事実上ありえなくなったわけで、この強さが根付いていってくれることを祈るよりほかはない。
僕自身を含め、多くのサッカーファンが日本代表監督就任を熱望してやまない名将ベンゲルも、試合終了後にテレビに出てきて、実にいい顔で「素晴らしいチームになったし、素晴らしい試合をした。残念ながら予選突破はならなかったが、日本にはおめでとうと言いたい」という趣旨の賛辞を述べていたことだし。

アンチ・監督ジーコである僕の見方も、コンフェデ杯以前よりははるかに肯定的になっているのも事実。そして、加地の大化け(東京FCはコンフェデ杯で、労せずしてえらい拾い物をした)や田中の地味な成長など、追い風となる要素も続々と出てきている。なんとか今のいい流れを持続して、ワールドカップ本番でも勝てるチームになっていってくれれば、と願わずにはいられない。
02:01 | スポーツ | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Thu.

青臭き戦士たち~ユースサッカー日本代表への深い深い失望

ついさっきまでユースサッカーの対ベナン戦を見てました。
ギター練習しながらだったからなんとか見られたけど、そうじゃなきゃ前半のうちに試合放棄してたね。
いいたかないけど、さすがは谷底の世代。なんて甘い奴らだろう。
結果もお似合いというべきか、途中退場者を出して10人になった小国ベナンを相手に、1-1の引き分けに持ち込むのが精一杯という体たらく。
とはいえ左サイドの家長と、後半から出場したゲームメイカーの水野は素晴らしかった。
平山も、相変わらず漠然たるプレーぶりとはいえ、やっぱりポテンシャル的には大きい。
でもほかは、あれは、何なんだ。(笑)・・・笑うしかない。


キャプテン(※)をやってる増嶋なんか、悪い冗談はやめてくれってほどにキャプテンシーもなく、前日のインタビューを見ても勝負に臨む者としての哲学などカケラもない。
大熊監督はディフェンスラインの統率ができるのは彼くらいだからといって当てにしているようだけど、ああいう薄っぺらな才能に期待しすぎても先はない。
今日もいったい何度、彼の浅慮が味方のピンチを招いたか。
また流れの悪い時間帯に、キャプテン(※)である彼は一体どれだけ声を枯らして、チームを統率したというのか?

それに、「ディフェンスリーダー」増嶋の後ろに控えるGK西川もまた、お世辞にも褒められない。
キーパーとしての技術はあるし、反射神経の鋭さや接触を恐れない勇気、キャッチングかパンチングかの判断の的確さなど、いくつかの取り柄はある・・・が、それは代表なんだから当然だ。
問題点は明らかで、彼には(も?)、口がないらしい。
必要最低限のコーチングはもちろんしているはずだけど、たとえば味方が不用意なプレーをして、彼がなんとか好判断でピンチを防いだような場合、GKたる者はディフェンスを最後尾からまとめる立場上、頭ごなしに怒鳴りつけてでも崩れかけた統制を立て直さなきゃならない。
川口やチラベルトならそうするし、ここ数年の楢崎だってそのくらいのことはやっている。
ところがこの西川クンは、したり顔でボールを抱え、小走りに走って、ディフェンスの元にボールを投げ返すだけだ。
ああいうキーパーは、国際試合より草サッカーの方がお似合いだ。


この谷底の世代は、彼ら自身の意識で変わることはもうないだろう。
彼らを僕が勝手に谷底の世代と呼び出してから、もう結構な月日が過ぎている。
変われるものならもう、とうの昔に変わっているはずだ。
あれらを叩き直すためには、それこそトルシエが必要なんじゃないかな。
彼なら、理不尽なまでに高圧的に、必要なら選手たちにショルダーチャージを食らわしてふっ飛ばしてでも明確な態度を要求する。
彼のすべてがいいとはいわないまでも、ああいう「戦えない」選手たち、「青き」ならぬ「青臭き」イレブンを一度壊して、無能は片っ端から切り、取捨選抜し直して戦える集団に作り変えるためには、それこそ暴力に近いものが必要だろう。

日本サッカー協会オフィシャルビデオ 日本代表激闘録 アジアカップ 中国 2004 V2先ほど挙げた川口らをはじめ、彼らにはお手本とするべき選手が腐るほどいる。
日本代表の系譜だけを考えてみても、中田英俊、宮本、中沢、秋田豊、ゴン中山、鈴木啓太、鈴木隆行、田中達也、大久保、などなど枚挙に暇がない。
彼らの戦いを見ていて、なぜあんな体たらくが恥ずかしくないか。
彼らは、(家長や水野などごく一部の例外を除いて)バカなのか?
試合の流れに応じて自分たちで考えたり、互いにコーチングしあって共通理解を持ち直したり、するだけの脳ミソが足りていないのか?
見るたびに腹立たしいような戦いばかりして、一向に成長の跡が見られないのは、あれはつまり、何も学んでいないということなのか?


このままいけば、よりによって反日感情渦巻く3年後の北京で、彼らは今大会に続く2度目の赤っ恥を晒して、日本国民の顔に泥を塗ることになるだろう。
あんな代表では、代表されるこっちがいい迷惑なのだ。
代表になるのは夢だったかもしれないが、代表になった瞬間から要求されるものに対して、彼らはあまりにも無感覚でありすぎるように思える。
戦う気が少しでもあるのなら、仲間同士で怒鳴りあってでも課題を突き詰めて、化ける努力くらいはして見せろ。
戦えないのならサッカーなどやめて故郷へ帰れ。
「青臭き」戦士たちの猛省と精神的自立、そして大化けを期待したい。
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04:19 | スポーツ | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Wed.

K-1ジャパン・グランプリを見る

今日のK-1堀啓に期待していたものの、ボブ・サップが優勝。
ただ、サップはかつてとは別人のように格闘家としての自己を確立しつつある印象で、キックの出もスムーズでかつ鋭く、決して不愉快な優勝ではなかった。
ファイトの内容自体も、かつてのようなパニック・痙攣型(←いま命名)の、臆病の裏返しみたいな盲目的なラッシュ(ひとたび裏返しが表に返れば、頭を抱えて打たれまくるだけ)とは違って、冷静に相手を見たかと思えば急激にラッシュを仕掛け、かと思えばまた距離をとって休み・・・といった緩急を、セコンドのサム・グレコの指示のもとに忠実に実行していた。
言動も、いつものプロレスラーじみたサービストークのときは相変わらずだけど、真摯な格闘家としての英語でのコメントは、これまでよりはるかに真剣な対戦相手への敬意の込もった素晴らしいものになっていて、魅力があった。

K-1 WORLD GP2002 ファイナルスペシャルファイトも質の高いものだった。
1ラウンドで勝利を収めた韓国の巨漢チェ・ホンマンは、どうやらやっぱり本物らしい。
もちろん、無差別級の体重差にものをいわせた強さには違いないにしても、たしかにサイズのわりに動きは速いし、頭も悪くなく、相手の動きを見極める落ち着きもあり、なかなかに困ったキャラクターだ。
巨漢の弱点は脚、攻略法はローキック、と相場が決まってるものだけど、彼の場合は普通の選手のローキックよりリーチの長いストレートや、相手の首を抱え寄せてのニーがあるから対処が難しいように見える。
ヤツには僕はどうしても優勝させたくないけど(少なくとも、デビューイヤーの今年には)、ありえないことではない、と思わざるを得なかった。

同じく1ラウンドで、こちらは秒殺で勝利を決めたベテラン、「南海の黒豹」レイ・セフォーもまた見事だった。
アマチュアのキックボクシングで150戦120KOを誇ったというニューフェイスをブーメランフックのワンツーであっさりと沈め、K-1の本来の姿(谷川が牛耳る以前の、本物の真剣勝負の厳しさ)とレベルの高さとを証明して見せた。
それに、サップに敗れて期待外れに終わった堀啓以下の日本人選手たちも、決して内容まで期待外れだったわけではなかった。
堀はスタミナや精神面で目に見えて成長していたし、僕がもともとわりと好きだった富平は決勝まで進んで、進化したサップを相手に激しいファイトを見せた。
日本人の本物のスターが出てくるのはまだ先のようだけど、底上げはできてきていることを感じさせてくれる、なかなかに充実した2時間(の放送)だった。
03:54 | スポーツ | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Mon.

「ひめゆり学徒証言は退屈」問題について少々

この問題を報じる新聞記事は興味深く読んでいたものの、どうせ試験問題の原文は読めないんだろうと思って深く追及しないでいたんだけど。
つい先ほど、BigBanさんのところ経由で思いがけず読めたのでよかった。
2件目のリンク先で紹介されている、問題文の後半部分がけっきょくは火種になったらしい。
しかし僕としては、それこそ不謹慎にも、問題文前半をエキサイト翻訳にかけてみたときの迷訳にやられて、しょっぱなからはなはだしく勢いを削がれました。(笑)

それらの軍人の大部分が彼らの遅い80にありました、それらのステッキの助けなしで彼らの震動しているボディーを保持することができません。

理念上は笑うところじゃないといったって、これが笑わずにいられるか・・・振動しているボディーって。(涙

こういう反射というのはある意味、この問題の本質とも相通じるところだと思うんだけれども。
BigBanさんも、葬儀の席で不謹慎ながらも感じてしまう退屈について例として言及してるけど、それに近いといえば近い話。
実際、笑うといえば、僕が法事だとかの厳粛な場に連なっているときの反射の1つは、笑いたくてしょうがなくなることです。
本当に親しかった故人を悼む、心の底からの当事者としての葬式なんかであれば、笑うどころじゃないのはもちろん当然でしょう。
でも、場が葬式や法事のたぐいだからといって常に絶対に悲しいか、といえばそれは現実としてそうじゃない。

みんなして神妙な顔して、木魚がポクポク鳴ってて。
よく肥えた生臭ボウズがもっともらしく読経してるけれども、誰もその音読の意味なんかわかってない。
いやそもそも、元をただせばあの経文の巻物は、日本に入ってきた当時から、もともとはちゃんと意味の通った外国語の文章だったものを、翻訳もしないでむりやり音をこじつけて読むようにしてしまったという、いわば出来損ない。
およそ1400年来の、奇形の文化の成れの果て。
あーあ退屈だな、とか思ったあたりで、そろそろ笑いたくなってくる、という仕組みです。
なにも法事に限らず、厳粛さって、一般に笑えてくるものだと僕は思う。


要するに、「かくあるべき」厳粛さと、「現実として」の退屈や可笑しさ、とのせめぎ合いがあるわけです。
そしてそのせめぎ合いはまた、「ひめゆり学徒の生き残りの方たちの話は尊重して聞くべきだ」という一般理念と、「しかしそれが必ずしも今を生きる高校生に鮮烈な印象を残しえないなら、『戦争の悲惨さという本質』の風化には歯止めがかからないのでは?では一体、どうすれば?」というより深い思索、とのせめぎ合いとも重なる。
理念と、本質。理想論と現実論。お体裁主義とリアリズム。
たとえば、遅かれ早かれ、戦争当時を知る語り部たちが一人もいなくなってしまったときに、今を生きる我々は、その記憶をどのようにして引き継いでいけるのか。

結局のところ、それを突き詰めて思索することこそが、その問題について「考えている」ということなのであって。
単にひめゆり学徒の方々の話を神妙に承っているだけの人々は、実は「馬の耳に念仏」を地で行っているに過ぎない・・・いや、本当の念仏ならべつに馬の耳だって同じことだが。(ボソ
そしてそういう、より深い思索レベルの文章を、ごく生な表現のままで入試の問題文に使ってしまったということが、要するに今回の問題の発端になった。
薄々、新聞記事だけを読んだ段階でも疑っていたことではあったけど、原文を読んだ今となってはそういう事情だったことは明らかだ。
意の通じない世論に一方的に叩かれた格好の担当教師には、僕は同情を禁じえない。


ただし結論をいうなら、僕はその教師を100%擁護することもできません。
彼ないし彼女に、まったく問題がなかった、とは思わない。
何が本質を伝えうるか、という課題文のテーマはたしかに魅力的だけど、やっぱり、それを問題文として出してしまった判断は、ちょっとばかりマヌケだったかもしれないな、と思うから。
この機会に、せっかくなんだから内容のある文章に触れてほしい、と思って、いってみればまあ、魔がさしたんだろうね。
ご本人の文章だったみたいだし、せっかく書けた名文を引っ込めて、月並みな駄文に書き直すのが嫌だったのかもしれない。

ちょうどまさに、僕自身みたいなタイプの人がやりそうなバカミスだ。と思う。(笑)
やってることは大略正しいのに、平々凡々たる一般の反発を計算に入れないから無駄な波風が立って、ともすれば裏目に出るんだよ。(マヌケ!
批判に回った元ひめゆり学徒の方とかは、ちゃんと問題の原文を読んであるのかな。
ただ幸いというべきか、高校側もことさらに担当の教師をどうこうするとかはいわずに、ごく表面的に(?)謝罪してやり過ごそうとしてるみたいだし。
対処としてはまずまず、ってところなんじゃないでしょうか。
となれば問題はむしろ、報道側の安易なハリキリっぷりの方にあり、ってことになりそうだ。

沖縄県への修学旅行でひめゆり学徒隊の女性から沖縄戦の話を聞いた生徒が「退屈で飽きた」と感じたという趣旨の英文

・・・という記事中での紹介が、果たして妥当だったかどうか、という問題です。
妥当ではない、という点に関しては、原文を当たればほとんど異論の出ないところなんじゃないかと僕は思うけど、どうかな。
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03:55 | 時事・社会 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Thu.

女児3人の置き石に思う(※若干追記)

読売新聞より、「どうなるか見たかった…小学生女児3人が線路に置き石」
これを読んで、単純に「ケシカラン!」とかだけ思ってしまうようだと、その人の社会的な感覚はちょっと磨耗しつつあるといえるかもしれない。
少なくとも僕は、これはちょっと妙だな、という印象を受けましたね。
どこが?という人は、記事の末尾に注目してみてほしい。

帰宅した5年生女児の様子がおかしいのに気付いた母親が翌日問いただすと、置き石を打ち明けた。母親は学校に相談し、市教委を通じて同署に届けた。

これってつまり、どういうことなんだろう。
経緯を追ってみると、以下のようになる。

1.女児は置き石をしたものの、電車は幸いにも事故を免れた。
2.結果的に大した事件にはならなかったとはいえ、女児のうちの少なくとも1人は、罪の意識もしくは追及される不安を覚えて落ち着かなかった。
3.母親は、その様子に気づいて問いただし、娘が置き石をしたことを知った。
4.母親は驚いて怒り(推測)、しかし自分だけで問題の重大性を判断しきれずに、学校に相談した。
5.教員たちは学校での指導の範囲外であると判断して、警察への届け出を勧めた。
6.母親は勧められるままに警察に届け出た。
7.女児とその2人の友達は補導され、事件は表沙汰になった。


僕が問題を感じるのは、4番と5番。
特に5番については、個人的に怒りに近いものを感じざるを得ないのだけど、順番上、まずは4から。
女児の犯行(未遂)を知った母親は、なぜその場で女児を叱り、万一の場合に起こったであろう悲惨な状況を理解させ、さらにはその友達の親たちにも連絡して、彼らが二度と同じような過ちを繰り返さないように導くことができなかったのか。
これは明らかに、親としての役目であるに違いない。
ただ、この場合の母親の混乱と孤独感──父親はどこにいて何をしていたのか、という別の深刻な疑問は残るけど──は、人間として理解できなくはない。

でもとにかく、この場合の母親は、事件をよりよく落着させるためのキャスティングボートを握っていた。
彼女は決して、この問題を、3人の女児たちとその保護者たち、という範囲から外に出さなくてもよかった。
根本的に、我が子を本気で叱ることのできない親だったのか、それともそんな親本来の役割をさえ忘れ果てるほどに動転してしまったのか。
いずれにせよ、ここで女児たちにとっての1つのチャンスが失われてしまったことは事実なので、残念なことには違いない。


そして5の、学校に対する怒りもまた、母親に対して感じる違和感の延長線上にあるものなのだけど。
校長はなぜ、3人を校長室に呼びつけ、懇々と言って聞かせた上で一度は事件を不問に付す、という決断ができなかったのか。
考えてもみてほしい。
小学校3年生から5年生までの女児が、犯してしまった未遂事件のことで呼び出しを受けた場合の、不安や恐怖や後悔がどれほどのものか。
自分が小学生だったころに立ち返って、よくよく想像力を働かせてみてほしい。

呼び出される場所は、校長室で充分だった。
なにも警察署である必要はなかった、と僕は思う。
そして、彼女たちを警察署に突き出さないという決断は、校長とその場に居合わせた教員たちにしかできないことだった。
「今回は偶然、電車は事故にならなくて済んだけど、もし事故になってしまっていたら、もう学校は君たちをかばってあげられないからね。誰も君たちを助けてあげられないんだからね」
というくらいの説諭ができなくて、何が校長、教育者だ。


現実には彼らは、混乱気味の母親に対してのうのうと「警察に届け出たら」と勧めてしまい、母親はそれに従ったわけだけど。
自らの意志で我が子を学校に委ねた母親を前にして、よくもまあ恥ずかしげもなくそんなことができたものだと思う。
そしてこの、生徒たちを警察に突き出すという決断には、濃厚な保身の臭いがする。
模倣犯たちの置き石が社会的に問題になっているこの時期に、こんな重大問題を学校内だけの判断で不問にするわけにはいかない・・・とか、そんな言い訳が聞こえてきそうだけど。
冗談もたいがいにしてくれ。

動転した母親の代わりに、この問題を吸収して発展的な方向に転じうるとしたら、それができるのは学校以外にはなかった。
警察にまで持ち込んでしまえば、後はもうどうにもならない。
女児たちは警察に呼び出され、あちらこちらに引きずり回され、この問題自体も近隣に知れ渡り、近所からは白眼視され、友達には距離を置かれ、やがては逃げるようにして引越し・・・というようなところまで、一直線に事態が進んでしまいかねない。
そうなった場合に、女児が抱くのは、果たして真摯な反省だろうか。


もう一度繰り返していう。
女児が呼び出される場所は、警察署ではなく、校長室で充分だった。
女児は怯え、泣いて、後悔し、それでも事件がぐうぜん未遂で終わったことの幸運を理解して、二度とそんな恐ろしいことはやるまいと思うだろう。
なぜそのチャンスが、3人の女児には与えられなかったのか。
僕は、敢えていう。
「その学校の校長が、バカで低脳な事なかれ主義者だったからだ」(少なくとも、その可能性が著しく高い──追記参照)と。

自ら蒔いた種とはいえ、女児3人が気の毒でならない。
子供時代には誰だって1つや2つはバカをやるものなのに。
そんなことをさえ忘れ果てた典型的健忘症タイプの大人が、ほかならぬ校長先生(ないし、母親)とやらだったのが不運だった。
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03:25 | 時事・社会 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Wed.

ノウハウサイトの書き方

先日の日記にも書いた通り、僕はPHP学習の2番目のテキストとして、phpspotという有名サイトのPHP講座を採用したんだけれども。
技術屋さん特有の説明のヘタクソさを想像力で補うなどして、どうにか9番まで学習を進めてきたものの、つい先ほど、ついに堪忍袋の緒が切れました。
PHPエディターなんていうかなり優秀なソフトを作ってるらしかったり、技術的には優れたサイトのようだけど、どうにもならないものはどうにもならない。
つまり、要するに。
なんで、できないの、日本語。(怒

というわけで、未だに制作途中という致命的な欠陥こそあるものの、遠からぬ日の完成を信じて、見切り発車で大本命サイト「そふぃのPHP入門」による学習に移ります。
もう我慢ならないから。
PerlCGIだったらまだしも優秀な教則サイトは多いんだろうけど、PHPに関しては、今はまだ未開の荒野だね。
どうやら「そふぃ」さんが先陣は切ってしまいそうな気配だけど、今だったらまだ、優秀なノウハウサイトを作ってアピールすれば、確実に出版社から声がかかると思うよ。


そふぃさんに関しては時間の問題、と踏んでます。僕は。
なぜなら、PHPがわかって、日本語もできる(読み手の感覚を推測する想像力と、それを生かした論述をする言語能力とを持っている)から。
ただそれだけのことのようでいて、日本語のPHPノウハウサイトでこの条件を満たしているのは、ここのほかに2つか3つしかない。
さらには、入門者が戸惑いがちな、スタートラインをどうするか(環境をどうするか、エディター選びの条件は、文字コードは、ファイルの拡張子は)といった部分にまで行き届いた解説をするセンス。
そこまで条件に含めてしまうと、これだけのサイトは、僕の検索した範囲ではこのサイト以外に1つもない。

一言にしていえば。
技術的な熟練と日本語能力とはノウハウサイト執筆の最低条件だけど、それに加えて、
何かにつけて「ああしてもいい、こうしてもいい」ということを書いてしまう執筆者は、そもそも素質がないから入門者向けのノウハウを書くのは諦めた方がいい。
ということに尽きる。
「こんなのもあります。あんなのもあります」じゃなく、上級者の目から取捨選択して、
「いろいろな選択肢がありますが、この選択肢を推奨します。解説はそれを前提に行います」
というのでなければ、初心者はついてこられない。


だからまあ、要するに、想像力だね。
自分がいま初心者で、これからPHPを始めるとしたら、どこで戸惑うか。
初めての環境として、どんなものが望ましいか。
あるいはまた、自分がいま執筆している解説文を初心者が読んだら、どんなところで理解に苦しむことになるか。
どんなに優秀な技術を持っていても、それが想像できない人には、ノウハウサイトは無理。
それこそ、無駄な選択肢を増やして僕のような初心者を混乱させるだけです。

客寄せとしてのノウハウコーナー、という商業的な発想はわからなくもないけど、少なくとも僕は好感は持てない。
どうしても(教育者としての才能もないのに)やるんだったら、ニーズを察してもっと真剣にやらないと。
存在自体が迷惑です。(ボソ
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