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Thu.

女児3人の置き石に思う(※若干追記)

読売新聞より、「どうなるか見たかった…小学生女児3人が線路に置き石」
これを読んで、単純に「ケシカラン!」とかだけ思ってしまうようだと、その人の社会的な感覚はちょっと磨耗しつつあるといえるかもしれない。
少なくとも僕は、これはちょっと妙だな、という印象を受けましたね。
どこが?という人は、記事の末尾に注目してみてほしい。

帰宅した5年生女児の様子がおかしいのに気付いた母親が翌日問いただすと、置き石を打ち明けた。母親は学校に相談し、市教委を通じて同署に届けた。

これってつまり、どういうことなんだろう。
経緯を追ってみると、以下のようになる。

1.女児は置き石をしたものの、電車は幸いにも事故を免れた。
2.結果的に大した事件にはならなかったとはいえ、女児のうちの少なくとも1人は、罪の意識もしくは追及される不安を覚えて落ち着かなかった。
3.母親は、その様子に気づいて問いただし、娘が置き石をしたことを知った。
4.母親は驚いて怒り(推測)、しかし自分だけで問題の重大性を判断しきれずに、学校に相談した。
5.教員たちは学校での指導の範囲外であると判断して、警察への届け出を勧めた。
6.母親は勧められるままに警察に届け出た。
7.女児とその2人の友達は補導され、事件は表沙汰になった。


僕が問題を感じるのは、4番と5番。
特に5番については、個人的に怒りに近いものを感じざるを得ないのだけど、順番上、まずは4から。
女児の犯行(未遂)を知った母親は、なぜその場で女児を叱り、万一の場合に起こったであろう悲惨な状況を理解させ、さらにはその友達の親たちにも連絡して、彼らが二度と同じような過ちを繰り返さないように導くことができなかったのか。
これは明らかに、親としての役目であるに違いない。
ただ、この場合の母親の混乱と孤独感──父親はどこにいて何をしていたのか、という別の深刻な疑問は残るけど──は、人間として理解できなくはない。

でもとにかく、この場合の母親は、事件をよりよく落着させるためのキャスティングボートを握っていた。
彼女は決して、この問題を、3人の女児たちとその保護者たち、という範囲から外に出さなくてもよかった。
根本的に、我が子を本気で叱ることのできない親だったのか、それともそんな親本来の役割をさえ忘れ果てるほどに動転してしまったのか。
いずれにせよ、ここで女児たちにとっての1つのチャンスが失われてしまったことは事実なので、残念なことには違いない。


そして5の、学校に対する怒りもまた、母親に対して感じる違和感の延長線上にあるものなのだけど。
校長はなぜ、3人を校長室に呼びつけ、懇々と言って聞かせた上で一度は事件を不問に付す、という決断ができなかったのか。
考えてもみてほしい。
小学校3年生から5年生までの女児が、犯してしまった未遂事件のことで呼び出しを受けた場合の、不安や恐怖や後悔がどれほどのものか。
自分が小学生だったころに立ち返って、よくよく想像力を働かせてみてほしい。

呼び出される場所は、校長室で充分だった。
なにも警察署である必要はなかった、と僕は思う。
そして、彼女たちを警察署に突き出さないという決断は、校長とその場に居合わせた教員たちにしかできないことだった。
「今回は偶然、電車は事故にならなくて済んだけど、もし事故になってしまっていたら、もう学校は君たちをかばってあげられないからね。誰も君たちを助けてあげられないんだからね」
というくらいの説諭ができなくて、何が校長、教育者だ。


現実には彼らは、混乱気味の母親に対してのうのうと「警察に届け出たら」と勧めてしまい、母親はそれに従ったわけだけど。
自らの意志で我が子を学校に委ねた母親を前にして、よくもまあ恥ずかしげもなくそんなことができたものだと思う。
そしてこの、生徒たちを警察に突き出すという決断には、濃厚な保身の臭いがする。
模倣犯たちの置き石が社会的に問題になっているこの時期に、こんな重大問題を学校内だけの判断で不問にするわけにはいかない・・・とか、そんな言い訳が聞こえてきそうだけど。
冗談もたいがいにしてくれ。

動転した母親の代わりに、この問題を吸収して発展的な方向に転じうるとしたら、それができるのは学校以外にはなかった。
警察にまで持ち込んでしまえば、後はもうどうにもならない。
女児たちは警察に呼び出され、あちらこちらに引きずり回され、この問題自体も近隣に知れ渡り、近所からは白眼視され、友達には距離を置かれ、やがては逃げるようにして引越し・・・というようなところまで、一直線に事態が進んでしまいかねない。
そうなった場合に、女児が抱くのは、果たして真摯な反省だろうか。


もう一度繰り返していう。
女児が呼び出される場所は、警察署ではなく、校長室で充分だった。
女児は怯え、泣いて、後悔し、それでも事件がぐうぜん未遂で終わったことの幸運を理解して、二度とそんな恐ろしいことはやるまいと思うだろう。
なぜそのチャンスが、3人の女児には与えられなかったのか。
僕は、敢えていう。
「その学校の校長が、バカで低脳な事なかれ主義者だったからだ」(少なくとも、その可能性が著しく高い──追記参照)と。

自ら蒔いた種とはいえ、女児3人が気の毒でならない。
子供時代には誰だって1つや2つはバカをやるものなのに。
そんなことをさえ忘れ果てた典型的健忘症タイプの大人が、ほかならぬ校長先生(ないし、母親)とやらだったのが不運だった。
※少なくとも、その可能性が著しく高い:
そうでないというほとんど唯一の可能性は、母親がある種の殉教的なヒステリー状態とかで手が付けられなかった場合とかだけだと思う。
・・・というケースを後になって思いついたので追記してみた。
校長先生、もし万一そういうことだったら申し訳ない。(沈
(6/2 16:33記)
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