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Wed.

命(ぬち)どぅ宝

NHKスペシャル「沖縄 よみがえる戦場 ~読谷(よみたん)村民2500人が語る地上戦~」の再放送を、ぐうぜん途中から見た。内容は、生き地獄のようになった郷里を右往左往した末にかろうじて生き延びて、でも戦後もその延長線上の苦難を抱え続けてこなければならなかった沖縄の人々の語る言葉に、現地取材や検証を加えていくもの。すごく真摯に作られた、良質のドキュメンタリー、だったと思う。

言葉もない思いで見ているうちに、僕のような平均的ヤマトンチュにとっては衝撃的な新事実を知ることにもなった。「沖縄駐留の日本軍残党は、アメリカの保護下に入った沖縄の人たちを虐殺していた」ということ。アメリカ軍から食料などをもらって、その代わりに日本軍の隠れ場所などを教えているに違いないという思い込みに基づいた、救いようもない無差別殺人だ。
該当部隊の指導者たちはスパイの何のといっていたらしいが、島民も日本軍残党も島内をバラバラに逃げたり隠れたりしている状況下で、そうそう島民が情報に通じているはずもない。教えるほどの内容自体、さほどにはない、というのが実情だっただろうに、その程度の理性を働かせるいとまもなく、確認をとる努力さえせずに、彼らは一方的に殺した。いつの時代、どんな場所にも馬鹿はいるけど、それが銃を持ち、集団を成して、身内に対して猛威を振るった実例がそこにあった。

戦後60年を経た今となっては意味するところが想像もつかない、「琉球民族への差別意識」のようなものさえ、そこには垣間見えるように思う。というのはつまり、避難民が当時の純粋日本人たる、いわゆる大和民族(?)であってもあの虐殺はありえたか、という点に一抹の疑念を感じるからだけど。いや、それとも、・・・ここから先はどうも、どこまでいっても想像の域を出そうにないからやめるけど。
今のイラク駐留アメリカ軍の兵士が、さしたる痛痒もなくイラク市民を殺す(テロ行為に対する「自衛」のために)のと同様の気安さが、そこには疑えば疑えるのではないかと。そんなことをさえ、なんとなく思ってしまった。


こういうことだと、南京大虐殺なんかも充分、中国側の主張に近い規模で起こしかねない素地は旧日本軍には濃厚にあっただろうと考えざるを得ないな。残念ながら。
もちろん、軍という集団の強制力に巻き込まれて、どうすることもできなかった人も多かっただろう。ただ、そういう人は、あるいは、必ずしも絶対多数というわけでもなかったのではないか。よりにもよって、軍の統制もバラバラになりかけた最後の最後のゲリラ戦の時期に及んで、アメリカ軍の監視下をかいくぐって命がけで避難所まで押しかけて、守るべき島民を殺すために貴重な手榴弾までふんだんに使った馬鹿どもがいたとあっては。この事件の悪質性は、極限状態だったからというだけでは到底見過ごされえないものだと僕は思う・・・実際にそのときその場にいたら、僕もまた加害者になっていたかもしれないと恐れつつ、それでもやはり、そう思う。

記憶はちょっとあいまいだけど、沖縄駐留の旧日本軍には天皇に宛てて「沖縄県民かく戦えり。後世格別のご厚配を賜らんことを」と打電して自決した総司令官がいて、その人なんかは当時の沖縄の人たちからも決して全面的に憎まれてはいなかったはず。実際、はるか後世を生きている僕のような極楽トンボでさえ、あの人の最後の上奏文を読んだときには、その凄絶なまでの覚悟と思いやりとに思わず涙ぐんだものだった。でもそういう人がいる一方で、こんな獣じみた馬鹿どももまた闊歩していた。
沖縄の一部過激派(?)は、「沖縄は日本の支配を離れてアメリカに属した方がよい」というようなことを言う、なんて話を僕は以前に小耳に挟んで、それもちょっと極端なんじゃないかなあと漠然と思っていたけど。
こういう経緯を知れば、そんな言葉を口走りたくなる心境も多少はわかろうというものだ。

そうでなくてさえ、沖縄の本土返還は1972年でしかなく、それから今まで33年しか経っていない。沖縄出身の40代以上の方々は「日本でなかったころの沖縄」を肌で知っているし、それより下の世代の人たちも、その時代の記憶や、そこに至る苦難の歴史を彼らから直接、聞いてきているのだから。
思い出してみれば、かつて大学時代のゼミで知り合った沖縄出身のM君は、「沖縄の人間には今でも、県外の人に対して距離感がある」という趣旨のことを何度か言葉を変えて口にしていたけど。その言葉の理由が、これまでより多少はリアルに実感できた気がした1時間少々だった。
「沖縄県民かく戦えり」の通信文を見つけたので転載しときます。
通信者は、海軍・沖縄特別根拠地隊司令官、大田実少将。彼はこの電信の送信後に自決しました。日付は1945年6月13日。享年54。

062016番 電
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左の電…次官に御通報方、取り計らいを得たし

沖縄県民の実状に関しては、県知事より報告せらるべきも、県にはすでに通信力なく、第三十二軍指令部又通信の余力なしと認めらるるに付、本職県知事の依頼を受けたるにあらざれども、現状を看過するに忍びず、之に代って緊急御通知申し上ぐ。

沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面とも防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆んど顧みるに暇なかりき。然れども、本職の知れる範囲においては、県民は、青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、わずかに身をもって、軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、尚,爆撃下(不明)、風雨にさらされつつ乏しき生活に甘んじありたり。

しかも若き婦人は率先軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身斬込隊すら申出る者あり。所詮、敵来りなば老人子供は殺さるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍営門に捨つる親あり。

看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵すでに出発し、身よりなき重傷者を助けて(不明)、真面目にして一時の感情にはせられたるものとは思はれず。更に軍において作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中にはるかに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。

之を要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、物質節約を強要せられて、ご奉公の(不明)を胸に抱きつつ遂に(不明)ことなくして、本戦闘の末期と沖縄島は実状形(不明) 一木一草焦土と化せん。糧食六月一杯を支ふるのみなりと謂ふ。沖縄県民かく戦えり。

県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを。



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マーク・ダーシーの日記「沖縄 よみがえる戦場」
沖縄「慰霊の日」です。 : しるぶぷれのウエブログ、処によりモブログ。
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