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Thu.

長野の連続強殺事件

 [2004年09月30日(木) ]

長野の連続強盗殺人事件がちょっと気になっています。
うちは毎日新聞なんだけど、今日の朝刊の記事を読んでから特に。
幼なじみの同級生(28)は、小学生時代の西本容疑者の姿を思い出した。部屋に高価なエアガンがあり、たまにプラスチック弾で通行人や通りすがりのパトカーを狙い撃っていたという。
「『まずいよ』と言っても、『大丈夫』と平気な顔だった」
小学校の卒業文集。西本容疑者はこう記していた。「ぼくは、人になにかわるぐちでも、いわれても一日でわすれてしまう。いつも、明るく、元気な、ぼく」


この一くさり読んだだけで、鳥肌が立つような違和感を感じるはずなんだけど。
少なくとも、僕はそうだった。
この不気味さに気づいて、敏感にピックアップしてこの記事を書いた記者の感覚は、相当に鋭いと思う。
小学6年生にして、もう人間として変調をきたして、ほとんど壊れている。
読み方しだいだけど、そんなふうにも読めてしまう。
本人は弁護士に対して、金がなく徐々に窮迫して、知り合い宅から盗むのももう限界になって、ここに至った。
死刑も仕方ない、納得できる、と話してるらしいけど。
でもその言葉に、どの程度の実があるのか、どうもツジツマが合わない。

この違和感に、どんな説明が可能だろう。
強いていえば、生のリアリティが違う、なんてことがありうると思う。
僕は自分自身のことも、長い数奇な生活の中で生き死にのリアリティさえ変わってしまった、なんてたまに表現してしまうことがあるけど、それとまさに同様に。
生のリアリティ、死のリアリティ。使う言葉の1つ1つの持つ意味合い。
それが違ってしまえば、同じ言葉を言っていても、その意味するところはまったく違ってしまう。
たとえば、恐ろしいほどの責任感覚の欠落、他者の感情を思いやる想像力の欠如。
「いつも明るく元気」──何の問題もないはずのこの表現に、ぎくりとするほどのグロテスクな感覚のずれが育っているのを感じてしまう。
仮に「それは元気ってことなの?」と誰かが訊いたとしても、小学6年生の西本容疑者は意味がわからずに困惑するだけだったんじゃないかと思う。
そして誤解を恐れずにいうなら、僕はこれと同質の不気味さを、電車内を走り回る「N」マーク付きのバックパックを背負った小学生の集団に感じてしまうことがある。

とはいってももちろん、多くの子どもは、べつに殺人なんかはしない。
この西本容疑者だって、何かの兼ね合いで仕事だけでもうまくいっていれば、ここまでのことはせずに生きて死んでいったに違いない。
でもその代わり、人格の歪みはどこかほかのところで必ず出てくる。
冷たい夫婦関係の果てに落ち込んだ離婚訴訟で、なんら言うべき言葉を持たない不思議な夫とか。
理屈に合わない、妙な違和感を伴う人間を、けっこういろいろな場所で見かけてるような気がしてる。
たとえば電車の中で。
この人はなんでこういう行動ができるんだろう、と、怒りを通り越して不思議になってしまったことはないかな?
または、傍若無人にふるまう子供を注意しない親の姿を見ながら、この子供はどういう人間に成長していくんだろう、と思って暗澹となるとか。
そんなことが、僕には少なからずある。

どこかが壊れている人が増えている、ような気がしてる。
僕の世間なんか、現状じゃ狭いもんだけど、だからこそ余計によく見えることだってあるかもしれない。
たまに乗る電車の中で感じる、あの違和感。
それのはるか延長線上にあるものを、この西本容疑者には感じるのです。
死刑も仕方ない、と彼は言う。
でも、「死」という単語ひとつの把握やイメージによって、その言葉全体の意味合いも重みもまったく違ってしまう。
せめてその違いを、ズレてる当人が認識しきってればいいようなものだけど。
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02:44 | 時事・社会 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
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