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Sun.

山岡荘八を読む

そういえば、前々から読み進んでいた司馬遼太郎「坂の上の雲」をしばらく前に読み終えたんだった。
それから100円で買った中島らも「人体模型の夜」も読んだし。
今は山岡荘八「伊達政宗」に取り掛かっています。
で、その伊達政宗。
読めば読むほど、「司馬遼太郎は偉大だったんだなあ・・・」って感じになります。(汗
なんで司馬遼太郎が出てきてしまうのかというと、つまらないから。
何がよくないといって、もうひたすら英雄叙事詩なんですよ。
それ以上でも以下でもない。
いつも毅然としててとにかく偉い、天才児の伊達政宗、しか出てこない。
まだ1巻の半分くらいまでしか読んでないのにこんなこというのも何だけど、もう先は見えたな、と。

司馬遼太郎の書く人物たちは、人間として免れようもない平凡な一面を持っていて、自分がどう生きるかに悩み、迷走を繰り返す。
そうして、その果てに活路を見つけて大きくなっていく・・・その過程のどこかに、凡人で終わった人々との分岐点が隠れているはずで(ただし、それがどこなのかは誰にもわからない)、読者はその軌跡を逐一、追っていくことができるようになっている。
僕はその感触を好んで、特に幕末ものを中心に愛読してきたんだけど。
たぶん山岡荘八の時代には、そういう歴史小説の「あり方」そのものがなかったんだろうなあと。
そう思わざるをえない。
まあ、伊達政宗は個人的に大好きだし、今現在、政宗の一代記としてはこれを超える小説はないんだから、最後までちゃんと読むつもりだけど。

しかし、違うんだよな・・・。
小説家個々のスタイル、という問題ではないと思う。
僕が知りたいのは、英雄がいかに英雄に「なったか」、であって、英雄がいかに英雄で「あったか」、の物語じゃない。
それはただの噺家の話に過ぎない。僕はそんなものに興味はない。
司馬遼太郎だって、いかにも売文家的な文章の粗雑さとか、作品中に「私が私が」としゃしゃり出てこずにいられない品のなさとか、僕は決してすべてがいいと思ってはいないんだけど。
ただ彼の書く歴史上の人物たちは、紛れもなく生きてる。
途方もないリアリティや体温を持って、しかも生きた時代の範囲を超えて「現代人的に」なることなく。

そのことは、これまで僕が評価していた以上に司馬遼太郎の才能だったってことになりそうだ。
山岡荘八にしても、それよりさらにもう少し古い時期に書かれた吉川英治の「三国志」にしても、英雄叙事詩に終始しているというのが共通の特色としていえる。
その意味では、古代中国で書かれた「三国志演義」の頃から、歴史小説ってもののあり方の根本は何ら変わってこなかった。
それを変えたのが、どうやら司馬遼太郎だった、ってことになると思うから。
やっぱり、彼は偉大らしい。
山岡荘八を読んで、初めてリアルにそう感じた。
なんだか山岡さんには申し訳ないようだけど、こればっかりはしょうがない。
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