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Fri.

人の死の伝え方

先日、元スーパーマンのクリストファー・リーブの死について日記に書こうとしたときのこと。
文章を書き出すなり、僕は過去にも何度となく胸中をよぎってきた葛藤とまたしても向き合うことになった。
リーブさんが──リーブさんだけに限った話ではないけど──「死んだ」と書くか、それとも「亡くなった」と書くべきなのか。
そこに少しだけためらいを覚えたのだ。
とはいえ、一瞬の躊躇の後、僕はすぐさま、ほとんど習慣的にこう書き出した。
「スーパーマン」クリストファー・リーブが心臓発作で死んだ。享年52歳。
そうして、僕はそのまま先に書き進みながら、でも果たしてこれでいいのか、となんとなく考えあぐねていた。

人の死を聞いて、それを誰かに伝えようとするとき、「死んだ」といわずに「亡くなった」というべきなのかどうか。
僕はいつも「死んだ」と簡潔に書いているけど、そのくせ毎度のようにひるむものをも感じてきている。
それが単に、社会的な慣習に逆らうことへのためらいなのか、それとももう少し別の種類のものなのかは未だによくわからない。
自分なりに、死は「死んだ」としか伝えようがない、という思いは歴然とあって、結局はいつもそれに従ってきてるんだけど。
なぜかといえば、つまり人は生きて死ぬものだから。
亡くなった、というだけで、その尊厳にカスミがかけられたような気がしてくるから。
彼は、生きて、死んだ。と認めてやらなければ、死んだ人が浮かばれないような気がしてきてしまうから。

「スーパーマン」クリストファー・リーブの、全身麻痺に陥って以降の懸命な生き様には、「亡くなった」なんて遠まわしな言い方は似合わない。
なぜ、と訊かれても困るけど、僕はなんとなくそう思う。
「亡くなった」という言葉には、ハレとケの「ケ」に似た響きがあるように思う。
亡くなった、といった瞬間に、彼はもう関係のない世界の住人だ、と決定づけて、それ以上彼について語る口を閉ざしてしまうような響きを僕は感じる。
そして、僕がいつか死んだとき、あいつは死んだよ、と言ってくれる人の存在を喜びたいと思う。
なぜなら、そういう人こそが、生前の僕の生の尊厳を認めていてくれた人だと思うから。

おかしいのかな。
そういう感覚は。
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