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Mon.

ラブ・サイケデリコ

土曜日に借りてきたラブ・サイケデリコ“Greatest Hits”を聴いてます。

しかし・・・どうなんでしょうね。こういうの。
上手い、凄い、カッコいい、と三拍子揃ってて・・・「で?」って感じ。
失礼を承知でいってしまえば、ものすごく達者な完コピバンドを見てて感じるのと同じ違和感を持ってしまう。
つまり、何がしたいの?この人たち。っていう。
シェリル・クロウに極度に似てる、っていう批判は置いとくにしても、ああいう音楽性が日本人である彼らのどういう部分から、どういう必然性をもって出てきてるのか。
いや、必然性がないからこそ、シェリル・クロウから個々の楽曲じゃなく「作風をパクって」、ああいうバンドができてしまったんじゃないのか。

やってる音自体は凄くクールで、これに惚れ込む人もいるんだろうけど。
「上手い、凄い、カッコいい」以外の賛辞はびた一文出せないようなバンドなんじゃないのかなあと。
すごく物足りなく感じてしまった。
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Sun.

鬼束ちひろのライブDVD

昨日は治療に行って、そのついでにツタヤで鬼束ちひろの2002武道館ライブのDVDを借りてきました。
ずっと音楽DVDはレンタル禁止で来てたのが、「一部解禁!」なんて出てたのでつい。

きょう通して見たけど、やっぱりボーカルが素晴らしい。
彼女のすべてがいいとは僕は思っていないけど、最近増えてる「声がデカいだけ」の似非スーパーボーカリストたちとはやっぱり一線を画してる。
軸にちゃんと心があって、感情表現としての歌声があって。
僕が最も尊敬するコッコなんかだってもちろんその点は同じだけど、鬼束さんのボーカルとして優れているところは、テクニカルな「技」の部分も完璧っていう点だろうな。
それも、テクニックはテクニック、じゃなくて、テクニックがあくまでも感情表現のために成立してるっていう素晴らしさ。
これだけのものを持っているボーカルというのは、歌のうまい人が増えてる今のJポップの中にもなかなかいない。

はっきりいって、普通のCDで聴くのよりよっぽどよかったです。
曲自体はともかく、ことボーカルに関しては。
圧倒的なまでの音色の幅とか、心の襞をなぞるような繊細な表現は、CDの緻密な録音の中からは感じられていなかった部分だった。
これから一週間、何度かに渡って聴き返してみるかもしれない。
じっくりと聴き込んで、自分の中に染み込ませるだけの価値は確実にあると思うから。
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Sat.

エイ○ックス考

たった今まで、DoAsInfinityというとんでもない名前の(直訳すると「義務として行う」・・・?)邦楽バンドのベスト盤をダビングしながら聴いてたんだけど。
“陽のあたる坂道”って曲が気になっていたから借りてきて。
でも、どうもやっぱり、いま一つ。
届いてくるものがなかった。
エイ○ックスなんてやっぱりこんなもんか。と思ってしまったり。
どんなにしっかり作られてても、やっぱり作られたものに過ぎないって印象が強くあって、どこがどうってわけでもないんだけど物足りない。
何なんだろなあ、とか考えながら歌詞カードを見てたら、ボーカルの人は詞も書いてないなんて余計な発見をして空しかったり。

エイ○ックスだったら、僕がいちばん評価できると思うのは浜崎あゆみだけど、それでも音楽的には似た傾向を感じてしまう。
(似た傾向を感じてなかったら、いちいち社名をあげつらう必要もないわけだ)
DoAs~に比べて浜崎あゆみの何がいいかといったら、本人が詞を書いていて、それに本人らしい息吹がちゃんとあるっていう点でしょうね。
ああいうエイ○ックス的曲作りと音作りが、なんとなく時代遅れに感じられる時期が来たとしても、彼女の歌は詞によって救われると思う。
何十年後かに聴かれたとき、「フン、こんなのが流行ってたの?」と鼻で笑われる代わりに、「へえ、この人こんなこと歌ってたんだ・・・」と誰かがきっと言ってくれるでしょう。
ちゃんと手馴れた人がプロデュースしてれば、もっともらしい詞を書くのは簡単だけど、そこに生の人間の息吹があるかないかは聴く人が聴けばバレてしまうものだと思う。
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Wed.

永遠の名曲

永遠の名曲ってものはたしかに存在する。
あたりまえじゃん、という反応を示すのはたぶん、音楽をあまり主体的にやったことがない人だと思う。
そのことの良し悪しではなくて、ただ単にそう思う。

自分でバンドを組んだり、作曲に取り組んだり、あるいはそうした活動を通じて音楽仲間と知り合ったり、という経験を持っている人は、耳も肥えれば耳学問も肥えて、多かれ少なかれマニアックな好みを持たざるをえないようになってくる。
僕ももちろん例外であるはずもなく、僕と同様の抑圧や疎外感を歌っているように見える一部のシンガーソングライターたちへの点はことのほか甘い。


そうしたシンガーソングライターたちの名前をずらずらと並べることは、プロフィールの方で散々やっているからここでは繰り返さない。
ただ、一人だけ例を挙げるならジョン・レノンがいい。
いやジョン・レノンというより、「ビートルズが好きだ」という発言がしょっちゅう引き起こす、ある決まりきった反応について語るのが一番手っ取り早そうだ。
僕がいっているのは、世間に流通しているビートルズ=バラードという陳腐きわまりない常識のことだけど。

ビートルズには、たしかに珠玉のバラードと呼ぶにふさわしいメロディアスな名曲群がある。“Let it be”、“Hey Jude”、“Something”、“Here comes the sun”などなど。
それらがビートルズの代名詞のように広くまかり通っているものだから、僕なんぞがビートルズをちょっとでも褒めた日には、たちまち話し相手の顔には、ああおなじみのバラードか、たしかにきれいだけどちょっとおとなしいね、といった表情が浮かぶ。
でも事実はそれとはちょっと違う。


僕が本当に好きなのは、アルバムでいえばホワイトアルバム(ちなみに次点は“Revolver”)、曲名でいうなら“Yeah Blues”、“Rain”、“I'm so tired”、“Taxman”、“Come together”などだ。
どれもが個人的な色調を帯びて、いわゆる世間並みの名曲とは別種の魅力を秘めている。
バラードに名曲が多いポール・マッカートニーに対して、ビートルズのこうした流れはジョン・レノンによって代表されている。
もちろん、そういう種類の曲も名曲と呼んでしまって一向に差し支えないのだけど、世間の(リスナーサイドの)スタンダードではたぶん、これらは名曲とは呼ばれにくいだろうと思う。

そういうひねくれた僕の耳で聞いてしまうと、メロディアスでキャッチ―で、広く名曲といわれているものの中には、まったく平凡陳腐で誰にでも作れそうな(実際やれば難しいにしても)曲だな、という印象しかもてないものも多かったりするわけだ。


ところがその一方で、僕でさえ「この曲は全然好みじゃないし買おうとも思わないけど、でもまぎれもない名曲だな」と思ってしまう曲が現に存在している。
そういう曲のことを、まさに個人の好みを超越してしまうという点から、僕はひそかに永遠の名曲と呼びならわしている。
たぶん時代とともに音楽の流行やスタイルが移ろっても、それらは(広く、世間的に)名曲でありつづけるだろう。

たとえば、井上陽水の“少年時代”。「私の心は夏模様~」と歌っているあれだ。あと中島みゆきの“時代”とか。最近聴いた中では、森田童子“ぼくたちの失敗”も悪くなかった(ドラマには興味がもてなかったが)。
どれも、僕の好みとはかけ離れた場所にある歌だ。
耳に残るメロディーと、心地よい素朴さ、世界観に没入するにはやや気恥ずかしい正統的な言葉、といったものを兼ね備えていて、それに加えてむげには否定できない何かがある。


否定できないというより、否定したくないのかもしれない。
世に腐るほどいるマニアックなミュージシャンたちにも、むやみに否定してもらいたくないと僕は思っている。
たとえば大きな美しいダイヤを見て、開口一番「それは炭素の塊に過ぎない」と言わずにいられない人間と、いっときでも息を呑んで見つめてしまう人間とでは天と地ほども違う。
吸い込まれるように見つめてから、これは俺が求めてるものとは違う、といって目を離せばいいだけのことなのに。

なまじ音楽をかじったばっかりに、感受性の範囲を自分で狭めてしまうとしたら、それほどつまらないことはない。
「耳が肥えた」などと言って粋がる前に、一度は自分の感受性を疑ってみてほしい。案外、美しいものを見過ごしていることに気づくかもしれない。
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