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Fri.

劇場版 機動戦士ガンダム

ヤフー動画の劇場版ガンダム、ぶじ3日連続で三部作を見終えました。
第1部を見た段階では、むかし見たときの方がよかったみたいなことを匂わせていたけど、そうでもなかった。
やっぱり素晴らしいです。初代ガンダム。
改めて皆さんにお薦め。(笑)
http://streaming.yahoo.co.jp/ch/bandai/program/program?c=bch&k=10002
再三いってることだけど、これはそこらに溢れかえってるロボットちゃんばらアニメじゃなく、人間ドラマなのです。
挿入歌の古くささだけは覆いようもないけど、ほかの点ではまったく名作の名に恥じない。
まさに特別な作品だと思います。


しかしあのリアリティ。
ここでいうリアリティとは、よくいわれるメカの精密さとか、SF的世界観の作り込み、っていったレベルの話ばかりではないのですよ。(すまし顔
登場人物の心の動き、すれ違い、つながり、といったもののリアリティ。
ジオン軍は悪、ではない。
連邦軍は正義、でもない。
今のどこかの国の大統領も、子供時代にああいうハイレベルな日本アニメでしっかり情操教育をやっておけば、あんな頭の悪いヒトラーみたいな何一つトリエのないバカキャラとして歴史に名を残すこともなかっただろうに。

物語の中で、試作品の寄せ集めであるホワイト・ベース部隊は、正常な部隊編成に繰り込まれる暇もなくあちこちの戦場に駆り立てられ、その中で奇跡的な戦果を挙げ続けていくわけだけど。
そうした主人公たちの立場上、後に1年戦争と呼ばれることになるこの戦争の全貌については、主人公たちと同様、実はわれわれ視聴者も、完全に把握できるわけではなく。
転々と変わる上層部の命令のままにあちらに飛ばされこちらに飛ばされしながら、目の前に起こる事態への対処だけに忙殺されていくことになります。
でも、そんな中でも、人は生きて死んでいく。


そして、たとえばあの雑魚キャラの代名詞「ザク」が、いかに戦争のあり方を変えた革命的兵器だったか。
その発展的機種として次々と試作され、たちまち量産されては戦線に投入されていくグフ、ドム、ゲルググなどがいかに画期的かつ現実的なコンセプトに基づく恐るべき兵器だったか。
そうしたごく現実的な描写を重ねる中で、戦争の情景は短い日々の間に容赦なく変わり、激しさを増し、当初は圧倒的だった試作新兵器ガンダムの特殊性・優越性も、物語が進むにつれて徐々に鋭さを失っていく。
そういう中から鮮烈に浮かび上がってくるのは、個人の存在や思いがいかに小さく無力で、でも生き残った者たちの心に鮮烈な印象を残すものか、という事実。
これ以上は、ネタバレになりすぎるので僕は書かないけど。

見る価値は必ずあります。
ハマる人は本当にハマるだろうと思う。
間違っても、この作品の続編のシリーズや愚にもつかないノベライズド本を見て、この初代ガンダムまでバカにしてかからないように。(笑)
まったくの別物というか、これはもう、奇跡的な結実というべき名作なんだから。
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23:32 | 映画批評 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Mon.

映画「エレファント・マン」を見る

たった今まで「エレファント・マン」を見てました。
よく作ったものだなあ、というのが第一印象。
奇形に限らず、不幸かつ数奇な境遇の人間を描いた作品の多くは、その奇形性や数奇性の描写をほどほどに留めて、万人受けする安全なヒューマン・ドラマに終始していることが多いものだけど。
この作品の「象男」ジョン・メリックは、そうじゃない。
白黒画面だからまだしもだけど、カラーだったら、さらには本人に面と向かって座られた日には、悲鳴を上げたくなりそうな無残な姿。
その絶対的な奇形性を大前提に置いて、そこから語り起こすあたりに制作側の熱意を感じました。

そして物語は、奇形の人間が無条件に人々に受け入れられていくような予定調和の幸福を歌い上げるでなく、かといって絶望に落ち込むでなく、ただ小さな希望だけを残して終わる。
僕は人や作品を語る上で「尊厳」という言葉をよく使うけど、奇妙なことにこの作品からは、人間の尊厳なんてものはべつだん伝わってこない。
19世紀末のロンドンに実在したというこのジョン・メリックは、哲学的というよりはむしろ詩的な感性で、与えられたものを素直に喜び、小さな安らかな満足を胸に生きようとする。
その満足は、僕のような俗っぽい人間にとってはなかなか想像しがたいものだけど、見ていて何の無理もなく美しい。
現実のこの人が果たしてここまで周囲の人々に愛されていたかは知る由もないけど、少なくとも映画の中のジョン・メリックが、あれだけの奇形にもかかわらず数少ない友人たちに愛されていたことは、当然のことのように映る。
いってみれば、尊厳という社会的な何かではなくて、彼はただ、彼らしく生きていた。
その結果として小さな満足と充足があり、幸福があった。
そういうことなんだろうと思う。


もちろん現実として、彼には大それた夢を見る余地がなかった。
内輪での小さな充足が、残酷なことだけど彼が夢見られるほとんど絶対的な限界だった。
そのことももちろん、ああいう人間性が形成されていく上での1つの要素ではあったのだろうと思う。
少数とはいえ、信頼できる友人たちに好かれ、気づかわれて、でも生活のほとんどを病院の一室で静かに生きていく日々。
彼は間違いなく、幸せだったのだろう。
でも、たとえば僕なら、耐えられない。ということを思う。
耐え難さにもがき、必死で自己実現を図り、その必死さゆえに友人を失ったりしながら、それでもなおもがくだろう。
その結果、彼のように愛されることもできなければ、自足することもできないまま一生を終えるかもしれない。
何がいいのかはわからないけど、僕は現実として、彼のようにはなれない、と思う。
境遇の格差はいうまでもないことだけど、それを抜きにしても多分、彼の感受性や生き方は、僕にとって真似しようにも真似られるものではない。

ただそれでもなお、このジョン・メリックにはリアリティがある。
実在のジョン・メリックはもっと複雑に悩み苦しみ、気難しい顔をして生きていたかもしれないけど、映画のジョン・メリックも決して浮世離れした架空の善人ではない。
僕が彼から学ぶべきことがあるのかどうかとなると、それはわからないことだけど。
人間の型が違うといえば、多分それっきりのこと。
でも彼の人格は美しく、人に愛されることを知っているし、与えられたものに満足して感謝することを知っている。
そのことはたぶん、人として幸せなことなのだろう。
僕の心に残ったのは、奇形の人々の行列が森の中を歩いてゆくシーン。
そして、波止場でジョン・メリックを見送る侏儒の男の笑顔。
「幸運を。・・・俺たちにはそれが必要さ」


しかし、若き日のアンソニー・ホプキンズが出てると知って、てっきり象男が彼なんだと思っていたら、若い医者の方だったとは。(笑)
エンドロールで初めて知った。
「羊たちの沈黙」のレクターのイメージとはずいぶんまた違うなあ・・・ハンサムだし。(ボソ
俳優の化けっぷりって怖い。
平凡だけど正義感に溢れ、ときにはそれを過信し、しかしふと立ち止まって、自分は偽善者だろうかと自問する。
あのおとなしげなエリート医者がまさかレクターとは。
まったく、・・・よく化けたもんだ。
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03:49 | 映画批評 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

デッドマン・ウォーキング

さっきまで映画「デッドマン・ウォーキング」を見てました。
予想をはるかに超えて、いい映画でした。
過去に見たアメリカ映画の中では1番だったかもしれない。
それも、アメリカ人お得意のドンパチやコメディ路線など微塵もなく、純然たるヒューマンドラマにして1番。
かといってもちろん、いたずらに暗澹と、誰も彼も額にタテジワ、みたいな安易なムード作りに走ってるわけでもなくて。
とにかく最初から最後まで、生身で生きてる人間たちのどこまでもリアルな物語でした。

主人公はぐうぜん死刑囚の男と交流をもつことになったシスターだけど、安易に信仰の予定調和に落着させようってわけでもなく。
本物の人間──生身の感情で真摯に生きている人たち──と、それを取り巻く、あるいはそれの集合体としての社会。
そして、そんな中に有無をいわせず芽生え、割り込んでくる不条理。
そういったものを痛烈に感じさせる作品でした。
似ているといえば、最近見た「ダンサー・イン・ザ・ダーク」はかなりの部分がこれの模倣作なんじゃないかってくらいのものだけど、主題への迫り方の迫力、誠実さ、リアルさ、すべてが天と地ほども違う。
この映画に関しては、あまりあちらこちらの感想や批評なんかは読まないで、予備知識なく見るのが一番いいんじゃないかと思います。
僕自身、彼の過去やら人間的な本質やら、いろんなことが主人公のシスターと同様に闇の中で、たくさんの謎を抱えたまま死刑囚の男と向き合うことができたから。

さて。
珍しく、今日はいいと思った映画について長々と書きました。
日ごろ長々と書く場合は、僕はたいてい悪口なんだけど、それは一つには「いい映画」には語る意味がないように思えるから。
これは語るものじゃない、見るものだ、と思えてしまうから。
なので、この文章はいったん日記に掲載して、それから必要なら加筆修正してブログに移すつもりだけど、僕が決して安易な悪口批評屋さんじゃないってことの証明になってくれればと思う。(笑)
僕が言葉を尽くしてお薦めしてしまうほど、本当にこれはいい映画なので、まだ見てないという人はぜひ。
死刑の是非を投げかける、なんてだけの浅薄な社会派映画じゃなく、こういうのこそが本当の人間の物語だと思うから。
22:30 | 映画批評 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

「2001年宇宙の旅」を見る

6時ごろからウォーキングした後で、キューブリック「2001年宇宙の旅」。
大した予備知識もなく借りてきたんだけど、これも「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と同様、賛否が極端に別れる映画だったらしいね。
で、結論からいうと、僕は「眠くなった」組でした。
宇宙を舞台にしたとにかく壮大で哲学的な物語、ってことみたいだけど、あるのは映像的イメージだけだな、と。
1968年の作品ってことで、時代的な限界をはるかに超えた映像的洗練には驚くよりほかないけど、これに古典的名作としての価値を見出すのは、どっちかといえば哲学的なものに免疫のない人たち──たとえばSFオタクたち──なんじゃないだろうか。
見掛けほどの深いものは僕は感じなかったな。

1968年といえば、いま調べたところでは、手塚治虫の「火の鳥」の第一巻が出版された年。
どっちがどっちに影響を与えた、って可能性は確率的には低そうだけど、テーマには驚くほど共通する部分を感じます。
そしてキューブリックは純・映像的に、手塚治虫は映像的なものをも意識しながらもより純・哲学的に、この壮大なテーマを消化した。
ってことになるんだと思う。
そして、この間の「ジョン・マルコヴィッチの穴」のときにも同じようなことを書いたけど、この映画のテーマもまた、日本人にとっては得意分野だと思うんですよ。
それは、ごく乱暴にいえば「輪廻転生」の思想。
火の鳥では露骨にそれが下敷きになり、キューブリックの場合は基本的には欧米的な価値観に立脚しつつも、やっぱり同質のものを表現していると思う。
そして、手塚治虫の方がよりテーマそのものに対しては肉薄していると僕は感じる。

「2001年~」の終盤のイメージの連続を「難解」と称して尊んだり、その解釈に悩んだりする人たちは小さな間違いを犯しているように思う。
最初から映像的に解釈されているものに、「解」などありうるはずもない。
表現している当のキューブリックも、自分が何を表現しようとしているかなど把握してもいなければ、その必要性を感じてさえいなかっただろう。
むしろ純映像的なイメージを畳み掛けることで、そういう混沌とした混乱の中に視聴者を落とし込もうとしているわけで、彼らのように気持ちよく混乱してくれればキューブリックはしてやったりとほくそ笑むに違いない。
エンターテイメント映画としては、それだけで立派に成立しているわけだから。
それ以上にことさらに難解がって、その意味するところを考え抜いたりするなどは、はっきりいって無駄なことだろうと僕などは思う。

もし本気で難解なものに直面したければ、手塚治虫の「火の鳥」の方をお奨めします。
こちらなら、いくら考え抜いたところでそうそう無駄にはならないと思うし。
キューブリックについては、いずれ見てみるつもりの「機械じかけのオレンジ」に期待を託すことに。
22:12 | 映画批評 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

「隣人は静かに笑う」を静かに笑う

木曜に借りてきた「隣人は静かに笑う」。
評判のいい映画だから多少期待したけど、よかったのは導入部だけでした。
あそこでグッと掴まれて、その後の主役の大学教授が米国史を講義する場面でガクッと醒めて、後はずっと冷淡に筋を追ってることしかできなかった。
アメちゃんにはあの程度が限界なのかな、って感じ。
テロリストがあんな、ウィットを解さないアダムス・ファミリー程度のものだったら、そこには人間の課題もヘッタクレもない。
(ちなみにアダムスファミリーは大好き・・・アメリカ的なもの、を毛嫌いしてるわけでは全然ない)

最初の講義の場面の、ほとんど一言目からよくなかった。
アメリカは何年前に革命を起こし、独立と正義と自由を勝ち取った。みたいなセリフ。
ああこの講義はダメだな、と学生気分で思ったね。
独立は事実だからいいとして、正義とは何?
自由は何をもって自由とする?
そもそも、歴史ってものは正義と不正義、自由と不自由(ないし圧政)、という二元論じゃ絶対に把握できないものだ。
もし現実のアメリカの大学でもあんな浅薄な米国史を教えているとすれば、現代アメリカの致命的な国際感覚の欠落は大学教育が元凶だな。

イラク侵略の問題でも散々出てきたアメリカの「正義」「イラク人に自由を」という類の病的思い込みとまったく同一の、ボキャブラリの貧困。
それが主人公の、教授としての第一声なんだから情けない。
いやでも、ひょっとしてこの大学教授は実は悪役の方で、これが「隣人」なのかな?と思い直して見てたけど、すぐにどうやらそういうわけでもないとわかった。
テロリスト側の人物描写も、ほとんど病的な逆恨みと奇妙な実務的実行力の混在、という程度のシロモノで、あまりにもお粗末過ぎた。
強いていえば、「テロリストはあなたの隣人かもしれません。気をつけましょう」という、平均的なアメリカ一般市民にターゲットを絞った啓蒙ビデオ?としてなら理解できるかな。
あれが映画だなんて、・・・制作費の無駄だよ。(毒

好きな人には本当に申し訳ないけど、僕は映画ってものを常に人間を中心に見ている。
小説でもテレビドラマでもそれは同じで、そこに不合理を感じたら、僕は決してその物語の中に入り込めない。
確かに社会にはいろいろな人間がいるけど、あのテロリスト夫婦の、特に妻の方の描き方の浅薄さにはほとんど絶望を覚えた。
あの人がどんな人で、何を思って生きて、人を殺しているのか、なんとなくでも想像しながら見られていたって人はいるのかな。
夫の方も途中までは悪くなかったけど、本性を現してからの描写はまったくダメ。
さらには、主役もよくない。こちらは描き方が問題というより、こういう人物設定なら主役としては見たくなかった、という感じ。
あまりにも人として鈍すぎるから。
大学教授という立場にいながら、主体的な思考能力や思想する能力に乏しすぎるから。

それはもう、僕にとっては見てられないほどに人間として醜怪だった。
講義での視野の狭さに始まって、アメリカ的誤認型正義の歩く標本、という程度にしか見えなくて。
そういう人物の視点で物語は描かれていくので、観客はその人物に自分を重ねなければならないわけだけど、僕にとってはそれはほとんど不可能だった。
アメリカ人向けだな、と感じた要素の一つはそのあたり。
アメリカ的正義、をとりあえず自分のものとして抵抗なく受け入れることができなければ、あの主人公は無理。
もしくは、観客の側に政治的主体性がまったく欠落していなくては無理。
コイツが悪役ならいいのに、とつくづく思った。
20:27 | 映画批評 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
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