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Thu.

愚痴・映画2篇

数日前に古典ホラー映画“悪魔のいけにえ”、今日は“何がジェーンに起こったか?”。
両方ともツタヤの土日半額で借りてきて見た。
残念なことに、どっちも一向にピンと来なかった。
どうも映画って表現は僕とは相性が悪いらしい。
僕があまりにも数奇な生活を歩んできたために、根本的に視点がずれちゃってるというのが1つ。
もう1つには、数奇な生活を歩んでくる中で、僕がいろいろと思いがけないところに傷を持っているために、万人受けするような価値観が引き裂かれるように痛かったりするから。

実のところ、映画そのものには感動していても、痛みの方が勝ってしまうことさえある。
僕がいいと思った映画の一つにスタジオジブリの“耳を澄ませば”ってやつがあるんだけど。
3,4年前の12月にそれを見て僕は感動して、同時に深く深くダメージを負って、丸々2ヶ月くらい何も手につかなくなるほどに落ち込んだ。
それ以来、ごく普通の意味での「いい映画」ってものにはそれまで以上に警戒心を持つようになっている。

どんなにいい映画を見たところで、僕は僕という人間が一向に救われないことに気づいている。
どうも、僕には映画ってものはダメなようだ。
いい映画に出会って深い部分で救われることなんて、今やカケラほども期待していないし。
ホラーならホラーで、身も蓋もないほど無意味なものが良くて、“悪魔のいけにえ”にはそれを期待してみたけど、そもそも怖さが身に迫ってこなかった。

だいたい、あんな恐怖なら怖くないんだよ。本当は。
あんな極端なもの、奇形の存在、社会の例外的脅威、なんてものは社会そのものの中じゃ悲しいくらいに無力だ。
ああいうものを奇形として恐れ憎み、その恐れを当然のように予定調和的に共有し合う、無感覚な個人個人の集合体としての社会。
本当の恐怖とか暴力っていうのはそっちの方だと僕は思う。

人間の皮をかぶった怪物のような悪役たちを前に悲鳴を上げるヒロインを見ながら、僕は作品をほどほどに楽しんで、でもずっと根本的に醒め切っていた。
まあ一つには、風土的なものもあるのかな。
環境があまりにもアメリカ然としていて、“リング”みたいな身近さは感じなかったし。
そして、こうして書けば書くほどに文章がとっ散らかっていくのは、僕の感受性がまったく働いてなかった証なんだろうと思う。

やっぱり、いいや。もう。
映画なんてものは。
あれはやっぱり、ごくごく大衆向けの娯楽であって、大衆の営みである社会ってもののスタンダードを肉体的・精神的に、また生活上も逸脱した人間にとっては入り込みようもないものなんじゃないかな。
一向に、個人の気配を感じることができない。
なんとなく、僕も本当はああいうものを受容できなきゃいけないのかなあと思ってウンザリしていくばかりだ。

これからもちょっとずつ見てみるつもりだけど、ここ数年、見るたびに映画という文化への気持ちは冷え込んでいく。
いってみれば、例外なき共感の芸術なんだな。あれは。
感じ方をあらかじめ限定されていることの手狭さが、共感できない身にとってはただただ腹立たしい。
映画というものが本当に嫌いになってしまいそうで、今日はちょっと嫌になっている。
00:00 | 病的独白 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Wed.

卑屈さは伝染する

卑屈さは伝染しやすいものだ、と最近つくづく思います。
人から人へ、どんどん移って拡がっていく。ギリギリのところで耐えて、前に向き直るきっかけを探しつづけている人を、いとも簡単に絡め取ってしまう。
そうして、そのことを思うと、僕は今さらながら判断に迷ってしまう。
今のような自分自身の境遇をHP上でさらけ出すということが、果たして正しいのかどうか。

弱音は吐き出せばきりもなくて、積み重ねればいつしか卑屈さに変わって発酵していくものらしい。
それは、いってみればその人間の放つ腐臭のようなもので、人を遠ざけるばかりか、本人の内部で悪循環をも生んでいく。
悪くすればそのまま、埒もあかないバカな愚痴を、えんえん吐き出すだけの人間になってしまいかねない。


卑屈な愚痴しか言葉にならないようなコンディションなら、その人は沈黙しているべきだ、というのが僕の基本的な考え方です。
その考えに従えば、僕はかつてやっていたように自分の境遇をひた隠しにしていた方がよかったのかもしれない。
浮世離れしたスタンスで、歌や詩だけを公開して。
だけどその一方で、僕がずっと心惹かれてきた複数のサイトの存在がある。
包み隠さず本音を語って、弱音や愚痴も交錯する中でなお、きらりと光るものをのぞかせているサイト。ああこの人は腐ってない、僕も頑張らなきゃな、と心から思わせてくれるような。
だからこのサイトも、来訪する誰かにとってそういう存在になれればいい。
僕はそう思って、HP上で自分のことを隠蔽するのは基本的にやめにしたわけだけど。

それからおよそ2ヶ月。
ここしばらくの不調もあって、僕のHP日記帳はやや愚痴にも似た、お世辞にも前向きとはいえない記述が並んでいる傾向にあるような。(笑)
果たして、どんなもんか。
腐った人間は、決して自分が腐っていることに気づかないだろうと僕は思う。
ひょっとしたら、僕が心を動かされたサイトのオーナーたちも、内心はそういう疑問や葛藤を抱えながら、それでもハラワタをつかみ出しては投げつけるようにして自分自身をさらしつづけてるのかもしれないし、そのへんは本当にわからない。


毅然としているつもりでも、いつの間にかどこかが変わっていくことって、僕はあると思うんですよ。恐ろしいことだけど。
ああこの人きょうは疲れているんだな、と思って理解したはずの相手が、いつしか「いつでも疲れてる」人に変わっていくことへの不安。
そうして、僕自身についても、僕は同じ不安を感じてる。
不調や無気力という言葉を、いつの間にか言い慣れてきてはいないか。死に至る病ではないとはいえ、病気を抱えてるという事実を、無理にアナウンスしようとしてはいないか。
疑わしい材料なら、常にいくらでもあって、それに反発する材料もまた山のようにあって。もちろん絶対に、結論は出ない。

結局は、このサイトを見て、いろいろ書いてくれる人たちを通して自分自身を把握していくしかない。
なぜWeb上での話に限るかといえば、実生活での人間関係が希薄なのも1つだけど(笑)、それと同時に、実生活の中では僕は自分の病的な面を決して表に出さないから。
ある意味このサイトだけが、僕の欠陥と、それと表裏の関係にある美点?とを外界に露呈する窓になっている。


乱暴にいえば、愚痴も弱音も構わないと僕は思います。ただ、卑屈さにだけは耐えられない。
卑屈という要素だけは受け入れてしまいたくない。
卑屈さというのは結局、醜さだから。
たとえば僕に人並み以上の賢さがあったと仮定して、その知性が意味を持つかどうかは、それが人間的な魅力につながっているか否かで決まるものだと僕は考えてる。

卑屈さは、魅力につながるはずの美点を全部、鼻につく欠陥に変えてしまう。
そうして、人を遠ざける。優れた人ほど、腐臭を敏感にかぎつけるものだ。
無感覚に残りつづけるのは、卑屈さに免疫のある卑屈漢仲間だけ、なんてことにもなりかねない。……いまの常連には、それらしき人は1人もいないけど。念のため。
だけどそうなったら、このサイトも僕自身も、まさに運の尽きってやつだろう。


気になるのは、「自分をさらけ出す」という美名の下にある限界線。
くどいようだけど、卑屈さだけはごめんだ。自分に対しても他人に対しても、それだけはいえる。
卑屈になるくらいなら、秘密主義に後戻りした方が100倍いい。弱みを口外しないことで、卑屈さのもたらす悪循環だけでも防ぐことができるから。

本当に卑屈な状態に陥ったときには、「自分をさらけ出す」ことのカタルシスに溺れてはいけない。
僕がことあるごとに美意識、美意識とバカの一つ覚えのように連呼してしまうのも、そんな思いがあるからだ。
僕は卑屈になってはいないか。
ことさらに腐臭をバラ撒いてはいないか。
たえず自問自答を繰り返しながら、自分っていう人間にだんだんと目鼻をつけていかなければならない。

当座のことに限っていうなら、治療の成果を待ちながらも、受け身な生活に甘んじてはいけない。ってことになると思うんだけど。
ここしばらく、そのへんのバランスをとるのに苦しんでいる。
00:00 | 病的独白 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
Sun.

カミングアウト

このところ、すごく考えてしまうコンディションが続いてる。それも、夜。眠れない。
それで、これからのことを思い悩んでる。ものすごく具体的に。
今の僕の生活は、プロフィールのところではあえて触れてないけど実はおよそ誉められないもので、要は中2以来の慢性病に振り回されたまま、25になった今もなお、先の見えない治療にほとんど専念してるような状況だ。
その慢性病の詳細や主症状については、およそ美しいものではないからここでは触れない。

治療というのは、前にもすこし触れたけど東洋医学研究家W氏によるもので、なぜそんなマイナーな治療法を選んでいるかといえば、過去10年あまりでかかってきた幾多の病院で症状の改善がまったく見られなかったためだ。
この慢性病を、僕は一生背負っていくのかと思っていた。
8ヶ月ほど前にW氏と出会い、その治療が効果を発揮したことで、初めてかすかな光が差した。ただ、はっきりと症状の改善が見られたのは最初の1,2ケ月のことで、ここしばらくは体感上、治療の効果は現われていないのだが。
W氏は治療の進展を明言してるので、はっきりいえばその言葉だけが頼りというような状況だ。


東洋医学のいいところは、主症状だけではなく、全身の問題を包括的に捉えて、その底上げを図る中で主症状をも治していこうとするところだと思う。
そうしたアプローチの違いから、西洋医学の盲点になっている難病でも治せる場合があるらしい。たとえばW氏の場合、鬱病を心臓系統の機能不全として捉えて、あくまでも「身体から」治そうとする。
あらゆる局面でそういう特徴がはっきり出てくるから、話を聞いているだけでも面白い。
だけどそのおかげで、僕は自分自身の抱えるさらに大きな問題に気づかされる破目になった。

もともと、僕はメインの症状とは別に、根本的なフィジカルの問題をだいぶ抱えていた。
それはこれまで、主症状を気にするあまりさほど意識に上らなかった部分だったが、治療の進展とともに主症状が軽減してみると、案外それだけでも人並みな生活を送る上で決定的な障害になりかねないものだとわかってきた。
極端な体力の不足、回復力の欠如などがその主なものだ。

中学や高校のとき、僕は自分と同様に体力のなさに悩んでいるはずの連中が運動部に参加して、どうにかこうにか日々の活動を消化していけることが不思議で仕方がなかった。
どうやら、それは要するに、僕だけは「病的なレベルで」体力が不足していたこと、が原因であったらしい。
(W氏の説明をいろいろと聞いて、その末に納得した部分だけど、こうして結論部分だけ書いてみると我ながら説得力がない)
10年も経って今さら気づくというのもなんだか間抜けだけど、そんな診断を自分で自分に下せるわけもなく。
僕はずっと、夢にもそんなふうに考えたことはなかった。


そしてこういう、大げさにいえば闘病生活の中で僕が学んできたのは、世の中には文字通り、どうにもならないことというのがあるんだということ……もともと、僕は「為せば成る。すくなくとも僕の場合は」という考え方の持ち主だったのだが、この持病に関しては、一切そういう考え方は通用しなかった。
挑めば挑んだ分だけ跳ね返されてきた。中学2年の発症当時から今に至るまで、ただ1度の例外もなく。
もっとも、身体さえ治れば、という自負と希望はある。
慢性病に苦しみ続けた十数年間は負の遺産とし て一生引きずっていくのだろうが、僕は自分自身の精神的な資質、知性、美意識については不足を感じていない。

ああそれにしても、努力家の傲慢!
満足に努力できるほどの肉体的な充実やゆとりが、持たざる者にとってどれほどの特権だったことか。
僕が自分の肉体的な弱さに苛立ち、トレーニングに取り組んだことは1度や2度ではなかった。
そういう中で、たとえば腕立てふせは決して20回を越えてできるようにはならなかったし、水泳の疲労は数か月通った後でなお、2,3日経っても回復しないのが常だった。

W氏に言わせると、筋肉というのはトレーニングで壊され、それが「過剰に治癒する」ことで強化されていく(これは僕も知っていた)。
しかし今の僕の身体にはそれだけの回復力がないので、鍛えても身にならないのは当然で、むしろ回復が追いつかず筋肉を少しずつ傷めることになるという。
「どんなトレーニングなら?」と訊ねてみたところ、ウォーキングや壁に向かっての10回の腕立てがせいぜいとの見立てだった。
もちろん、そうしたネガティブな見立てを、僕は唯々諾々と受け入れたくはなかった──やればやったでなんとかなるんじゃないか、というのがごく一般的な反応だということもよくわかっている。
でも、僕が繰り返した10年以上に及ぶ試行錯誤は、W氏が正しいということを明らかに証明している。


僕はずいぶん、この問題について考えつづけてきた。
今、何ができるのか。この身体ならこの身体なりに、プライドを持ち、多くを望んで、自立して生きていくことはできないか。
だけどやっぱり、結論は「身体さえ治れば」。努力さえ満足にできない現状では、僕は将来とも、自分自身に多くを期待できない。
ネットをやるようになってから、僕は活発な人たちの日記をずいぶん読み、何度かはほとんど呆然とした。
まるで飛んでいくかのように思えた。その、日々の充実が。1日1日の密度が。
そうして心底焦り、どうにかしようと思い、試行錯誤を重ね、無理に無理を重ねては失敗してきた。

“努力ができるのも特権”──なんだか怠け者の妥弱漢のいいわけみたいで腹立たしいけど、これが僕の試行錯誤の歴史の、いってみれば結論なのかもしれない。
だから今は、耐えるしかない。いたずらに焦っても仕方がないから。治療の進展を待ちつつ、これまでと同様に、地道な、できる範囲の努力を続けていくしかない。
ときどき、その状況に苦しむあまり、必要以上に苛立ってしまい、極端な、好戦的な意見を吐いてみたりする。
好むと好まざるとに関わらず、それが僕のおおよその現状だ。


昨日、また治療に行ってきた。
新たな問題が判明して、その克服のために、あと半年、というひとつの目安が示された。
その半年をどのように活用していくか、と考えたとき、僕はこのサイトのコンセプトを少し修正してみようと思い立った。
それは、自分を出すということ。
だからじき、たぶん全面リニューアルします。
ひょっとしたら、日記も書き始めるかもしれない。こういう内面的なものとは別に、もっと日々の記録になるようなものを。
現状と向き合うということや、それをオープンにした上で世に問う、ということを、もうすこし真剣にやってみたくなった。

……とりあえず、プロフィールにだいぶ加筆しないとな。。(笑)
00:00 | 病的独白 | comment (-) | trackback (-) | page top↑
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